真剣さが足りない。本気でやりなさい。と言うけれども‥‥

先日、キャリア関係の先生方が担当されている科目を授業参観しに行ってみた。いつもなら「空いてる時間帯」で探すのだが、今回は目的を持って行き先を選んだ。それは、グループワークをどう運営しているか、知りたかったからだ。当日を含めた数回は、外部の企業の偉い人にもコメンテーターとして加わって頂き、グループで、喫茶店の新事業の企画をする(企画書を作成する)のが当座の目標だった。前回までに素案が提出されていて、今回その偉い人が目を通した所感として曰く「真剣さが足りない」のだと。

PBLにおいて、社会人視点で、レスポンスの悪い学生に対して「何やってんだ本気でやれ」「真剣さが足りない」などと言うことは、そういえば、よくあるな、と、ふと思った。しかし、そう言い渡す側の思惑とは違って、受け取る学生には、根性論や精神論と受け止められることが多いように思われる。彼/彼女らは、彼/彼女らなりに、本当に、真剣で本気でやっているからだ。つまり、足りないのではなく、指導する側とされる側で「真剣」「本気」の意味がそもそも違うのである。このギャップが発生する理由は、僕が思うに2つある。

一つは、逆算思考に代表されるような、思考上のスキルを知らないので、真剣かつ本気であってもその真剣エネルギーや本気エネルギーをどこにどう注げばいいのかわからないのである。これは、小さな小さな題材(部屋を片付けるとか、自炊で晩ご飯とか、明日の予定を立てるとか)で、タスク分解や、期日から逆算したスケジューリングを、何回かやらせてみれば、自然に身に付くスキルであろうと思われる。いきなり「新事業の企画書を書け」とふっかけるのでは路頭に迷い、心が折れる。小さな小さな成功体験が大切なのだ。

もう一つは、優先順位をどう付けて行くべきかというスキルが無いから、エフォートが足りないのである。意義や人間関係(つまり「独りでやってんじゃねぇぞ」だから「できませんでした」は通用しないということ)を地道に理解させるしか方法は無さそうである。ただし、「学生特有の優先順位」が存在することは、声をかける側が留意すべき点である。あくまでもPBL受講学生にとって、それは生業、飯の種ではない。最後にはそこが効いてくる。「あんたらはそれが仕事だからいいけどさ」「こっちは学業とバイトと両立しなきゃいけないんだ、仕事だけしてればいいヒマなあんたらとは違う」これらを学生が納得できる形で論破するのはかなり難しい。というか、論破できても「それはただの正論」と受け止められるだけで、納得させるのは無理だろう。

そう、スキルなのだ。今、新卒に求められているもの、そういう新卒を輩出するために大学に求められているものは、スキルとその教育なのだ。

教養科目のゼミナールで、ずっと「教養とは何か」みたいな議論が続いていて、今期に入り、教養教育と共通教育は違うんだ、という話になり、ついに最近、我々の知のあり方(?)は、「教養」vs「専門」ではなく、「教養」「専門」に加えて「常識」の、三つどもえ構造になった。社会で求められているのは「常識」なのである。「常識」は英語ではcommon sense即ち「共通感覚」である。それを教えるのは「共通教育」ないし「一般教育」とでも呼ぶべき営みだろう。残念なことに、それは長らく大学のカリキュラムでは「一般教養科目」と呼び慣らわされて来たので、世の人はついつい「専門」でないものは全部「教養」と呼んでしまう‥‥心の中ではもちろん「教養」ではなく「パンキョー」と言いながら、である。

共通教育として、常識、あるいは常識の世界を生き抜くスキルを身に付けるのが目的であれば、確かに、座学は向いていない。昨今、アクティブ・ラーニングが喧伝されるのも、授業に於いてレクチャー的な要素が少ないほど良い授業とされるのも、むべなるかな、である。