科学技術とその専門家は、本当は何を期待されているか

今回はわかめネタではない‥‥べっ、別にネタが尽きたわけじゃないんだからねっ!!

先日、縁あってお寺の住職引継ぎイベントに参列させて頂いた。そんな機会はそうそうあるものでもないし、非常に興味深く見ていた。

その中で、すごく引っ掛かることがあった。式典開始早々の偉いお坊さんの挨拶で、科学技術の発展して現代において人間が失ってしまったこころを取り戻すために今こそ御仏の教えを云々、と言っていたのである。程度の差はあれども、まぁ、普段から、日常的にあちらこちらで言われていることではあるので、それ自体は取り立てて珍しい物言いでもない。しかし、こういう改まった場で、そういう偉い人が言うとなると、それなりに影響力があるし、それなりにその業界およびその周辺の事情というかコンセンサスというか、そういうのを反映しているのであろう。

なんで科学技術が発展したら人間は心を失うのだろう? より正確に言うと、なんで科学技術の発展と現代社会における人間性の喪失を結びつけようとするのだろう?

おもてなしやサービスの話題でも同じような言い方‥‥「科学技術にはできない、人間にしか出来ないサービス(おもてなし)」のような言い方‥‥をよく聞くように思う。でも、こちらはまだ連想しやすい気もする。というのも、サービス業の店舗の各所のオートメーション化は誰の目にも見える形で普及していて、直接的にも間接的にも「機械による接客」が増えていることはすぐに脳裏に浮かぶし、それを「人間不在」と言うのも簡単だからだ。

思い出されるのが、僕がいつぞやの教養科目のゼミナールでのネタになるかもしれないと僕がドストエフスキー事件について書いたものをスタッフに投げてみたところ、仕切っている哲学の先生から返ってきたコメントに、「確かに文系的な人々は科学を理解しようとしないものだが、それと同じように、科学者は宗教を理解しようとしない」とあったことだ。宗教を「理解する」とは、あるいは理解した状態とはどのような状態を指すのか、もっと具体的に言えば僕が何を知り何を感じられ何を言えるようになれば宗教理解試験合格を認めてもらえるのか、よくわからないが、これもやはり同じことを言われているように感じた。

F1事故後、一応の専門的知識を持つ者として、少し頑張ろうとしたことがあった。その時、様々な方面から様々な反発を受けた。この経験は、僕に‥‥僕の持っている様々な顔のうちの特に「疑似科学バスター」としての僕に‥‥別に人々は科学なんて求めていないのだな、科学的根拠に基づく損得(それは場合によっては生死に関わる)なんてどうでもよくて、信じたい、信じることで救われたいのだな、と理解させた。「科学も宗教の一つ」という言説に与するつもりは毛頭ないが、本当に、「世の中にはいろんな人がいる」のだなと実感するし、「理解し合えるなんて幻想」なのだなとすら思えてくる。

だから、例えば、式典で挨拶した偉いお坊さんにとっては、科学技術の発展した現代においては人間はこころを失ってしまっていると信じたいのであろう。あるいは、福島県を汚染した科学技術は何かこう「行き過ぎたもの」であって欲しいのだろう(そういう人々の中には過激な人もいて、その人にとっては、科学技術が暴走していなければならないので、そのためには今の福島県は人の住めない地獄であらねばならないようなのである)。科学技術が発展して行けばサービスやおもてなしからは人間味が薄くなってしかるべきなのだろう。科学者は宗教を理解できない存在であって欲しいのだろう。そういえば、古来より、正義のヒーローに立ち向かう悪の組織には、必ずと言って良いほど、暴走した「マッドサイエンティスト」が存在した。科学・技術、およびそこに携わる専門家たちは、そういう存在であることが期待されているのであろう。

その理由は、何だろうか。僕にはあのヒット曲「世界に一つだけの花」‥‥僕はこの歌が日本をダメにしたと考えている‥‥と全く同じルサンチマンを感じずにはいられないのだが、思い込みが過ぎるだろうか。ひょっとするとそう見えることこそ僕のルサンチマンなのかもしれない。

そして何より、今回のイベントで引き継いだ新住職‥‥かつて某有名国立大学の工学系の学部で物理化学をやってた人物であり、その奥さんも化学系企業の研究職にある‥‥は、偉いお坊さんのあの挨拶をどう受け止めたのだろうか。