プロジェクトマネジメント雑感

夏期休暇後半ぐらいから、ゼミの活動、自分の外向き・内向き双方の研究活動、学生の活動、一応スタッフとして関わっている他部署等々、様々な場面で、プロジェクトマネジメントについて考えさせられることが急に増えた。


某部署では、学生にプロジェクトをさせることによって人材を育成することを看板にしている。そういう科目も開講している。しかし、その部署のスタッフが次々に倒れてしまっている。我が社でひときわ忙しいはずのあの部署でこの状況では、近いうちに業務が破綻するんじゃないだろうか。人員再配置でスーパーマンを1人増やすという話もあるようだが、根本的な解決にはなっていないのは明白だ。プロジェクトで人を育てる組織が、プロジェクトで人をつぶしていては、笑い話にもならない。ここのプロデュースする学生プロジェクトの1つは、隣の学生からは「あれは、教授陣のやりたいことを学生にムリヤリやらせて、学生をボロ雑巾にする仕組み」と揶揄される始末だ。

プロジェクトの中で「そのプロジェクトに必要な人材」を育てるのは、仕方なしにやるはずなのだ。本来、プロジェクトは、そのプロジェクトの内容に応じて、相応しい人材を集めて立ち上げられるものだ。しかし現実にはそうもいかないから、「仕方なく」「必要な能力を持った人材」に引き上げるプロセスが、プロジェクトの業務の中に組み込まれなければならない。

一方、プロジェクト遂行を通じて人材を育てるのは、特に育てる対象が学生の場合にはPBL(Project-Based Learning)とか言われるけども、要するにOJT(On-the-Job Training)なんだよね。要求されるレベル設定も違えば、育てる=働くだから「習うより慣れろ」「技を盗め」ってなもんで、育成プロセスはプロジェクトの業務の中には入らなくても構わないことになる(明示的に入ってるほうが良心的だろうが)

もともとOJTなんてものは、長引く不況の中で、「即戦力が必要!」「新人研修なんてチンタラやってられっか!」「そんなとこにカネかけてられっか!」「使えるもんは新人でも使え!」という、経営者側の勝手な論理でヒットしたものだ。新人育成をまじめに考えていない、というか、そんなメンドクサイことなんか考えずに済ませようとするものだ。そんなものを、何も知らない学生にそのまま持ち込んじゃダメだろう。

ここまでで言いたいことはとんでもなくシンプルな事で、「OJTなりPBLなりが成立するのは、最低限の知識があってこそ」ということ。準備体操なしにいきなりマラソンしてもケガをするだけ。違うと思うなら、大学1回生のフレッシュマンゼミを担当してみれば良い。よく、多数の学生を座らせて教員が一方通行で話す「座学」はダメだ、双方向で議論と体験を通じて云々、なんてことがまことしやかに言われるけれど、「単語」を知らない学生同士で、議論なんて成り立たない。一見、議論しているように見せかける事はできるが、それとて自発的には起きない。相当強引に誘導してやって初めて可能になる。手を離したままマトモな議論が成り立つのは、早くても2回生からだ。まずは「単語」を知らないと何も始められないのだ。学生プロジェクトだって同じことだ。

そもそも世の中の「プロジェクト」と呼ばれるものは、どれくらい「成功」しているのか?もちろん、何を以て「成功」とするか、には様々な観点があるので、「あの部分は成功したけど、こっちは失敗」みたいなことはたくさんあるだろうが、第一義的には「当初の企画の目的、そこから作られた目標(成果と言ってもいい)が達成されたかどうか」で成否が判定されるだろう。

しかし、ものの本によれば、プロジェクトの成功率は3%程度あるかないか、なんだそうだ。ということは、プロジェクトというものは、たいてい失敗するものだということだ。では、失敗することも考慮に入れたプロジェクトマネジメント(いわゆるフェールセーフってやつかな?)はどうあるべきだろうか。「失敗することなんて初めから考えちゃダメだ!」なんて昭和のスポ根な発想では、終わった時には全員ボロ雑巾になって誰も残っていないだろう。華々しい甲子園球児チームの裏には、観客スタンドにすら入れなかった、深刻なケガで野球ができなくなった元球児、場合によってはケガで高校生の時点で人生を棒に振った元球児がたくさんいるのだ。

そう考えれば、プロジェクトのToDoを決める際には、目標が達成されるかどうかに加えて、目標が達成されるかどうかに関係なく、プロジェクト参加者が育っていることがフェールセーフと言えるはずだ。その観点からすれば、丸投げスポ根学生プロジェクトが機能しないのは明白で、育成過程(育成課程)を真剣に考えた上で、PBLを実施するべきであろう。

先に挙げた学生プロジェクトでは、夢と希望にあふれた有能な学生が次々とボロボロになって辞めて行った。他の学生プロジェクトではどうだろうか?「ボロボロになる前に辞められるか」本人のそんなセンスの有る無しが問われるようでは、PBLを仕掛ける側がダメだろう。

我々が主宰するゼミは、「イベント・プロデュースを通じて、プロジェクトマネジメントを学ぶ」というような宣伝文句で学生を釣っている(^^; 発足以来、いろんなイベントに「いっちょ噛み」させてもらいながら、コンテンツとマンパワーを提供してきた。しかし、最近、学生達の間で、「これってセンセーのやりたいことを私らにやらせてるだけだよね」的な空気が漂っているのを感じている。もちろん、学生にごちゃごちゃやらせるよりは、変な言い方だが「大人」が全部やっちゃったほうが手っ取り早いので、ホントに僕たちがやりたいことをやるためなら学生に投げたりはしない。目的が「学び」だからこそ、ゼミのPBLとしてイベントに首をつっこんでいる。学生達がこんな風に冷めて、疲れてしまったのは、上で書いてきたようなことをうやむやしたまま「えいっ、やっちまえ!」だけで続けてきたせいなのだろうと気付いた。ここら辺で、仕掛ける側である僕達が、真面目に「仕組み」を考えなければいけない。

プロジェクトマネジメント業界(?)においては、「座学でも説明出来るハードスキル」と「やってみないと身につけられないソフトスキル」がある、とされる。プロジェクトごとにメンバーが変わるため、確かに統一的な方法論は作れないし、そういう「ひと」の部分つまりソフトスキルは経験しなければ身に付かない「感覚」だ。しかし、ハードスキルと呼ばれる方法論を知っているだけで細かくつまらないことで悩むコストをいくらかは減らせるはずで、その分だけ「ひと」のことにリソースを注入できる。その分だけ、「ひと」がつぶれることを回避する確率を高められるはず。ゼロから始めるのと1から始めるのは雲泥の差だ。

丸投げスポ根プロジェクトでは「とにかくやってみろ」「やってみながら自分で考えろ」「お前なら出来るはずだ」と当の本人を無視した勝手なことをつぶやく(それが通用するなら、元々その人はPBLなんてしなくても十分に育っている人だ)。まさかこの話法でひとがつぶれるなんてことは夢想だにしていない。特に、壊れてしまった人に対して「お前なら出来る」なんて励ましは絶対やっちゃダメだ、というのはいわゆる鬱病対策で口を酸っぱくして言われていることなのに、昭和のスポ根スーパーマンにはそれがわからない。「飲み会で腹を割って話すのが大事」ってよく言うけど、そういうことを言う人に限って「飲み会で腹を割って話せば解決」としか思ってないように見えるのは気のせいだろうか。飲み会で腹を割って話せる人はまだ余裕がある。「何かあったら相談してね」って言うけど、相談出来ないからつぶれるんだよね。スーパーマンにはそれが分かってない。直接会うと余計に話せなくなる人が存在していることを想像することもできない。

スーパーマンは、うまくいったプロジェクトのイメージしか無いか、もしくは、スーパーマン話法が通用するスーパーマン集団プロジェクトしかイメージしていないのだろう。例えば、JAXA/ISASのプロジェクトなんかが引き合いに出されたりするけれど、あれはスーパーマン集団がウルトラマンばかりの審査を受けながら進めるプロジェクトだ(実際、今まさに、凡人の僕はスーパーマンに囲まれて次期火星探査プロジェクトに参加しているが、彼我の絶望的な能力差に叩きのめされて心が折れそうな日々である。最近特に…いやここではやめておこう)。あるいは著名な大学生プロジェクトも引き合いに出されるだろうが、それはそういうアイドル集団になってしまったあとだからこそ、厚い学生層から選抜してスーパーマンを揃えることができるだけだ。その前に凡人集団でもがいた時期があったはずだということを忘れている。

その意味で、いま、ゼミでは、PMBOK*1も参照しながら、「通り一遍のプロジェクトマネジメントの考え方と技法」をなんとか紹介できないものか、その上で、イベント・プロデュースというゼミ内PBLにおいてどんなことがどのように学べるのかを明確化する「カリキュラムのようなもの」を作れないものか、と思案している。時間的制約もあって、実現までのハードルは高いが、なんとかしたい。

ま、マトモに社会に出たことも無い僕の言うことなんで、「寝言は寝て言え」なことは重々承知。しかし、全く無意味ではなかろう。

さて、もちろん、僕たちのゼミは、ボスがスーパーマンであるのを除いて、僕も含めて、もちろん凡人である。後期のゼミ運営は、2回生プレゼミが新たに増える。3・4回生ゼミも含めて、どのようにテコ入れしていくべきか。悩ましい。

*1:Project Management Body of Knowledgeのこと。プロジェクトマネジメントの、事実上の世界標準。