教養は絶望の向こうに ——科学コミュニケーションの現場から——

我が社の教養教育を司る機関として「教養の森」センターという組織がある。そこで年報を出すことになり、僕もメンバーの一人としてエッセイ的な駄文を書いた。ということで、ここで先行公開する。



2013年の秋に、縁あって、あるお寺の住職継職法要に参列させて頂いた。そんな機会はそうそうあるものでもないし、非常に興味深く見ていた。

その中で、とても引っ掛かることがあった。開始早々の、ゲストの偉いお坊さんの挨拶で、「科学技術が発展した現代において人間が失ってしまったこころを取り戻すために今こそ御仏の教えを云々」と言っていたのである。程度の差はあれども、普段から日常的にあちらこちらで言われていることではあるので、それ自体は取り立てて珍しい物言いでもない。ましてや「御仏の教え」を説く道を先代から引き継ぎあらたに歩み始めようとする新住職への言葉である。しかし、こういう改まった場で、そういう偉い人が言うとなると、それなりに影響力があるし、それなりにその業界およびその周辺の事情、あるいはコンセンサスを反映しているのであろう。

なぜ科学技術が発展したら人間はこころを失うことになってしまうのだろう? より正確に言うと、なぜ科学技術の発展と現代社会における人間性の喪失を結びつけなければならないのだろう?*1

あの東北地方太平洋沖地震に引き続いて起こった福島第一原子力発電所事故の後の「放射能パニック」とでも呼ぶべき混乱状態を目の当たりにして、一応の専門的知識を持つ者として*2、少し頑張ろう、何か少しでも情報発信をしようと一念発起したことがあった。と言ってもできることもほとんど無く、Twitterを通じた簡素な科学コミュニケーション活動といったようなイメージだった。

科学コミュニケーションとは、科学的な題材について(特に、専門家とそうではない一般市民が)双方向的なコミュニケーションを行うこと、またはそのような活動、と言えるだろう。20世紀後半に各国で起こった様々な事件によって、科学技術の権威や専門家への信頼が失われ、専門家が一方向的に情報を流す科学「普及」が成立しなくなったことから、対等で双方向的な「対話」が重視されるようになったのである。特にヨーロッパでは社会的意思決定の場で専門家と市民が協働する仕組みが発達している。私も惑星科学の専門家として、駆け出し研究員時代から科学コミュニケーション活動的な取り組みを試行錯誤してきた(と自分では思っている)。

さて、それまでTwitterでは平凡な市民だった私が、福島第一原発事故後、「科学者として」の発言を始めるや否や、様々な方面から様々な反発や非難を受けた。いや、バッシングを受けたとは言え無名の私などはまだまだ軽い方で、当時、著名な科学者の発言はまさしく袋だたき状態であった。この経験の向こう側に見えた圧倒的で巨大な潮流は、私に——私の持っている様々な顔のうちの特に「疑似科学バスター」としての私に——人々は別に科学なんて求めていないのだな、科学的根拠に基づく判断(それは場合によっては生死に関わる)なんてどうでもよくて、信じたい、信じることで救われたいのだな、と理解させた。「科学も宗教の一つ」という言説に与するつもりは毛頭ないが、本当に、世の中にはいろんな人がいるのだなと実感するし、理解し合えるなんて幻想なのだなとすら思えてくる。これらは科学コミュニケーション活動の中で私が学んだことの中でひときわ重いものであった。

だから、例えば、継職法要の冒頭で挨拶をなさった偉いお坊さんにとっては、科学技術の発展した現代においては、人間はこころを失ってしまっていると信じたいのだろう。あるいは、福島県の一部を汚染した科学技術は何かこう「行き過ぎたもの」であって欲しいのだろう*3。科学技術が発展していけばサービスやおもてなしからは人間の暖かみが無くなってしかるべきなのだろう。そういえば、古来より、正義のヒーローが立ち向かうべき悪の組織には、必ずと言っていいほど、暴走した「マッドサイエンティスト」が存在した。科学技術、およびそこに携わる専門家たちは、そういう存在であることが期待されているのであろう。

その理由は、何だろうか。私は、この「科学者が演ずるべき役割」の中には、あのヒット曲「世界に一つだけの花*4と全く同じルサンチマンのようなものを感じずにはいられないのだが、思い込みが過ぎるだろうか*5

その(私には)ルサンチマン(に見えるもの)はどこから来たのだろうか。管見の限りではあるが、これには大学受験と日本の中学校〜高等学校でのカリキュラムにその大きな原因があると考えている。大学入学時点で専門分野を決めることが要求され、そのための選択をしていくフローチャートが描かれている。理想論的には「数ある学問分野の中から自分の適性に合った分野を深く掘り下げるための選択」と謳われるのであろうが、実際には、生徒達にとっては「やりたくないことをやらなくて済むような選択」でしかない。そして、科学技術系の分野(この時期の呼称では「理系科目」)の特徴の一つは、わかりやすい形で、「訓練」を要求されることである。ピアノを弾くために地味な音階練習の訓練を積み、高校球児が腕立て伏せやランニングを血の汗を流しながら自らに課すのと同じく、つらく苦しい計算問題を大量にこなさなければ、その先のレベルには到達できない。一方、この時期の「文系科目」と呼ばれる科目では、具体的な「ひと」が登場し、そこにはドラマがある。感じることができる。理系科目のような「訓練」は(一見すると)不要で、その場しのぎの暗記でもテストはなんとかなってしまい、しかもそれらの詰め込み作業も「人間ドラマ」が頭に入れば苦しくないことも多い(ように見える)。

「理系科目」の、この「訓練」は脳を酷使する。鍛え、絞る。まるで現代保健体育的には禁じられてしまったウサギ跳びのように、自らに負荷をかけ続ける。

ちなみに「お前の脳ミソは筋肉か」という古くからの悪口があるが、私は昔から「脳は筋肉だ」と言っている。もちろん比喩であるが、脳は、使えば疲れ、眠ったり食事をしたりすれば回復する。瞬発力と持久力があり、一度に負荷をかけ過ぎると痙攣を起こして動かなくなる、等々。たまにちょっと違う使い方をするとリフレッシュする点では、パズル類がストレッチやマッサージに対応していると言えるし、なかなか良い比喩ではないかと思っている。この比喩で言えば、わかりやすい形で「脳という筋肉」を酷使させられる「理系科目」的・単純労働的・反復運動的「筋力」トレーニングは、疲れるし、つらく苦しいので、できればやりたくない。なかでも、緻密に論理と正確な計算を積み上げる「公文式的」な数学は特に嫌われる*6。そして、やりたくないことはやらなくてよくなるような選択が許されている。こうして、「文系」を名乗る「非・理系」が大量生産される。「異文化理解をしたい」と言って入学してきながら、すぐ近くに居る「理系文化」を理解しようとしない観光学部生は実に多い。

このように書くと、理系礼賛主義のように見えるかもしれないが、小文のフォーカスはそこではない。ことは単なる「理科離れ」の問題ではないのである。あまり知られていないかもしれないが、端的な例を一つ挙げると、「理系」の中でも「物理学離れ」が進んでいるのである。物理学は、いわば、理系科目の中の理系科目である。これが「理系」の中でさえ避けられている構図は、先の「非・理系」のあり方と同じである。つまりこれは、「理系」においても存在する、「脳を酷使する(ように高校時代までは見えてしまう)しんどい科目=やりたくないこと」を選択しない潮流がもたらした結果なのである。

ここまでくれば、先述した「ルサンチマンのようなもの」の意味もわかる。文・理を問わず、自分たちが選ばなかった、即ちやらなかった(やれなかった)ことをしてきた(できた)人へのルサンチマンが「世界に一つだけの花」という形で結晶し、数十年続いている受験戦争の結果そのようなルサンチマンを抱く人が大多数を占めるようになった世の「みんな」が、そんな「花」を選んだ(受験戦争は「ナンバーワンな人」よりも圧倒的に多い「ナンバーワンじゃない人」を生産し続ける仕組みである)。あの歌は、そんなつらく苦しい思いをしなければ得られないもの、即ち、「知」そのもの、の価値を認めないことの宣言だったのである。そう考えれば、フジテレビ系列でヒット番組となった『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』(レギュラー放送は2002〜2006年)も、なぜあのように絢爛豪華な仕立てが必要だったのかが明らかになる。あの番組は、「みんな」で徹底的に「知」を嘲笑するための番組だったのだ。それを効果的に見せるための「落差」を作る装置があの絢爛豪華さだったのである。どことなく(アメリカ的でない)ヨーロッパ貴族風な匂いがあったのも、「知」の世界での「庶民」vs.「貴族」の対立の構図を演出し、その中で、下克上的に、あるいは判官贔屓的に、「貴族」階級を嘲笑するための仕掛けだったわけだ。

さて、お気付きの通り、小文でここまで「知」と呼んできたものは、より正確に言えば、体系的・学問的な意味での「知」である。古今、実業界が求める「常識」や「スキル」のようなものではない(もちろん両者の間にはグラデーションの領域が連続的に広がっている)。

ひとが何かを学ぶ時、そのコンテンツが伝達されるための「チャンネル」は様々である。考えを巡らす、話を聞く、手を動かす、心で感じる、等々。ひとによってチャンネルの使い方には得手不得手がある。それと同じく、学ぼうとするコンテンツの性質によって、伝えるチャンネルに向き不向きがある。およそ「常識」や「スキル」に類するものは座学に向いていない。敬語の使い方、会議の進め方、資料作り、プレゼンテーション、グループワークなどが典型例である。この種の「常識」「スキル」が重視されるべき企業各社の新人教育に関わる人々が声を揃えて「座学は無意味」「アクティブ・ラーニングを」と言うのは当然である。これに対し、じっと座って脳を酷使する「思考」にウェイトのある体系的・学問的な「知」を伝えるためには、座学も重要な伝達のチャンネルになり得るが、そもそも先述した通り、この意味での「知」は、もはや現代社会には必要とされていない。現代社会にとって、大学は高等教育機関ではなく、「最低の教育を保証する最後の学校」でしかない。その意味で、社会の声を基準にした大学には「専門(と、そこへ至るための基礎)教育」と「常識・スキル養成」さえあれば良いのである。もちろんここで言う「専門」とは、実業の世界で「今すぐに使う」ためのものであるから、座学よりも「手に職をつける」ための教育が主眼であって、博士など要らない。学問的「知」の担い手としての学者の存在意義などとうの昔に無くなっているのである*7

では、そんな学者たちの巣窟である「大学」の一つである和歌山大学の「教養の森」は何をするところであるべきなのだろうか? 「専門・基礎」でもなく「常識・スキル」でもない、「教養」とは何だろうか? 『トリビアの泉』の例でわかるように、あれこれ広く浅くかじって「物知り」になることが「教養」であるとは到底言えない。その意味で、「教養の森」の提示する新しい教養科目群は、啓蒙書的な入門科目を漫然と並べただけで「教養科目」と名乗るわけにはいかない。私は、今まで述べてきたような考えから、自らが専門としていない様々な学問の「あり方」を見て、そのような学問的「異文化」あるいは「異世界」が存在することを知り、体験する、いわば「知」の世界での冒険を通じて、「知」に価値があることを再発見してもらうのが、「教養」教育ではないか、としたい。「役に立つ/立たない」ではない価値、と言ってしまうとチープになってしまうのだが、とにかく、「知」そのもの、あるいは「知」という営みそのものに価値を見出せる能力あるいはこころのあり方のことを「教養」と呼ぼう、ということである。何か自分の知らないことに出会った時に「それは自分のやることではない」「関係ない」と停止し、対象とのそれ以上のコミュニケーションを断ち切ってしまう人が大変多いが、私が考える「教養がある人」はそうではなく、知らないなりに、それを知ろうとして何らかのアプローチを試みようとする——そういうイメージである。

「異文化理解とは、理解し合えないことを前提に妥協点を探す試みだ」という言説をどこかで見たことがある。福島第一原発事故後に私が目の当たりにした絶望的な科学コミュニケーション崩壊は、今にして思えば、そういう経験だったのかもしれない。「科学の世界」しか知らなかった私は、あの絶望を通じて、「科学が不要な人々の世界」があることを知った。それも私にとって「教養」となったのだろうと思う。今はあの偉いお坊さんとも話せるような気がする。

願わくは、和大の「みんな」——学生だけでなく、教員も、職員も、関係する地域のみなさんも——が、「教養の森」を散策し、学問の世界の異文化コミュニケーションを通じて、「知」を再発見してくれんことを。

*1:もちろんフランクフルト学派が云々、といった社会思想史的な文脈はあるが、ここではもっと単純に「この人をそう言わしめたのは何か?」程度の話である。

*2:私は一応、放射線取扱主任者第一種の免許を持っている。

*3:そういう人々の中には過激な人もいて、その人達にとっては科学技術が暴走していなければならないので、そのためには今の福島県は人の住めない地獄であらねばならないようなのである。そんな誤った認識のデマは声が大きいがゆえに流布しやすく、現在福島県で平穏無事に暮らしている人々を二重・三重に苦しめている。

*4:私はこの歌が日本をダメにしたトドメの一撃だったと考えている。

*5:ひょっとするとそう見えることこそ私のルサンチマンなのかもしれないが、話がややこしくなるのでそれはひとまず置いておくことにする。

*6:生徒達は「理系科目」を選ぶ人は「論理的な人でなければならない」と考えているようなのである‥‥実際には科学系文化よりも人文社会系文化のほうがはるかに精密な「論理」を要求されることは、まだ知らない。

*7:この絶望感を知ることこそ、科学普及ではない科学コミュニケーションの出発点、あるいは「学問コミュニケーション」の出発点である、と今の私には思える。