今年の取り組み

「今年は◯◯に取り組みたいなぁ」的なことをあれこれ考えていたのだけれど、昨年の年初の記事を読み返すと、今年取り組もうと考えていたことと完全に一致していて気絶しそうになった。

ということで、繰り返しになってしまうので、その辺りは略。

毎年、我が家から発送される年賀状には、家族各人の「今年の目標」なるフレーズが記載されることになっている。文献をたくさん読むことを挙げておいた。ここ数年来、なんというか、自分がアホ過ぎて凹むことばかりで、とにかく勉強したくて仕方ないのである。本屋に行ったり図書館に行ったりすると、自分が何も知らないことにただただ茫然と立ち尽くしてしまう。いくら本を読んでも足りない。

物理学をもう一度勉強し直したい、というのもある。今なら、昔ダメだったこともわかるのではないか、という期待もある。

昨年から始めた新しい取り組みに「数字のデータをグラフに描いてみる練習」がある。総務省の公開されているデータを取ってきて絵にしてみたり。やはり少しずつでも続けていると「見える」ようになってくるものだなと感じる。そういう脳の使い方を忘れていただけかもしれないが、ともかくいい練習になっている。これはこれで続けていきたい。ということで、この方面での今年の目標として「惑星(探査機の)観測データを扱えるようになること」を掲げておきたい。すっかり人文・社会系の暮らしをしていたので、環境の再構築からデータへのアクセス方法まで、いろいろと問題は山積している。まぁ、日々の業務の合間を縫って、ボチボチやりまひょか、といったところか。

白髪が急激に増えてきたので、今年はおそらく、もうごまかせなくなるだろう。イメージチェンジを図らねばならなくなりそうである。今年は年齢も大台(?)に乗ることだし、どういうキャラ作りをしようか…あるいは、「どう作るか」ではなく、そもそも「自己認識の変革」の問題なのかもしれない、とも思いつつ。

あなたのこの1年の満足度を数理モデル化してみた

年の瀬にふさわしい(?)話題を一つ。

「今年はどうだったかなぁ」「今年はやりのこしたことがいっぱいあったよなぁ」「今年はけっこう頑張ったなぁ」などと思いを巡らす時節であるが、どのような条件のときにこの一年を「後悔」するだろうか?

日々は選択の連続である。選択とは意思決定であり、その意思決定を間違った場合、「あの時こうしていれば」と後悔する。従って、日々それぞれの身に降り掛かってくる「選択」に失敗したダメージ、衝撃の、1年間の「積み重ね」がある閾値を超えた時に「後悔」し、そうでない時に「満足」(あるいは「まあまあ」)できる、と判定されると単純化できそうである。

ということで、これを数理的にモデル化することを試みる。

意思決定、判断にはその人のセンスが出る。「いつもうまくいく人」は確かに存在するし、逆に「何をやらせてもダメ」な人もいる。そこで、その人の「判断力」を、一定の確率=「判断正解率」pで表すことにする(0≦p≦1)。

日々降り掛かってくる「選択」には、「電車のこの車輌に乗るか、もう一つ前方の車輌に乗るか」ぐらいのどうでもいい選択もあれば、「結婚するかどうか」あるいは「あぶない!飛び出し!(ハンドルをどっちに切る!?)」のような重大な選択もある。そしておそらくそれは、全くにランダムではなく、重要でない案件ほどたくさんあり、重要であればあるほど少ない…いわゆるべき乗則に乗るものになるだろう。地震マグニチュードと発生頻度のようなものだ。そこで、単純化のために、1日1回選択があるものとし、観測期間をN日間として、n日目に訪れる案件の重要度(Importance)をI(n)とする(重要度I(n)は地震マグニチュードの時系列のような形になるとするわけだ)

判断に成功すると、重要度に応じてプラスに感じ、失敗すると重要度に応じてマイナスに感じる。これをN日間で積算したものが「満足度」Sであるとする。それぞれの判断の成功確率はpだから、規格化のために観測日数Nで割ることにすると、満足度Sの期待値は以下のようになる。

S=(1/N)Σ{ pI(n)−(1-p)I(n) }  (※Σはn=1〜N)
=(1/N)Σ(2p-1) I(n)
={ (2p-1)/N } ΣI(n)

この時点で、少なくとも満足度S>0になるためには、p>1/2‥‥つまり半分以上は正しい判断ができる人でないと満足することはない、ことがわかる。まぁ、当たり前と言えば当たり前だ。

I(n)の規格化条件を考える。全ての判断に成功する人はp=1のケースに相当するから、
S=(1/N)ΣI(n)=1
と規格化することにすれば良いだろう。

このようにして算出されるSに対して、我々はどのように判断するだろうか? ここはよめさんがアイデアをくれたのだが、例えば「自分は8割ぐらいはイケてる」と思ってる人は、結果が8割以上出てないと納得しないだろう。従って、満足判定条件は

S≧p

と言える。

あとはI(n)を作りさえすれば、例えば、よくある「診断メーカー」「占いメーカー」みたいな感じで、「判断正解率p」「観測対象期間N」を入力すれば「あなたのこの1年は満足/後悔すべきです!」と判定してくれるアプリとか作れるんじゃないかな。

丸善CHI HDの決算状況〜ジュンク堂消滅に見る出版業界の危機

ジュンク堂消滅決定」という、関西人的にはいささかショッキングなニュースに接し、そんなに経営やばかったのかと驚いた。

丸善、ジュンク堂を吸収合併 社名は「丸善ジュンク堂書店」

いや、もちろん、出版業界がだいぶ前から危機なのはわかってるけども、具体的に、よく足を運んだところが消える、と聞くと、やっぱりびっくりする。

ということで、勉強のため、決算状況を見てみようと思った。親会社の丸善CHIホールディングスの情報が少し四季報オンラインに掲載されていたので、そこから作成してみた。記念に(?)ここに出品。

利益率が1%も無いということは、すごく単純に言って、1000円の本を売っても利益は10円に満たないということか。先のニュースではこの1年で丸善書店が売上高213億9400万円で純利益2億6900万円、ジュンク堂書店が売上高503億1000万円で純損益が1億6300万円の赤字だったとのことだから、消滅もやむなし、なのかな。

エボラ出血熱の致死率は下がっている

みんな飽きちゃったのか、すっかりマスメディアでは小さな扱いになってしまったけど、西アフリカ・エボラ出血熱の流行状況は、ペースは落ちたとは言え、指数関数的な拡大が続いている。依然としてとんでもない脅威のままだ。

でも、データ公表3回ごと(5〜7日程度ごと)の致死率の推移を計算してみると、40%を下回りそうなほどに下がってきているようだ。

ここで言う「致死率」は、罹患【してしまった】患者のうちどれだけがこの病気で亡くなるか、を表す。拡大の原因である独特の土葬の風習をやめて「正しく土葬する」という努力がなされているけれども、これは【新規の】患者数を減らす効果に現れる。従って、致死率が下がるのは別の理由、すなわち「手当て」の効果だと考えられる。

治さずとも体力をキープすることで悪化を防ぎ免疫系が勝利するのを待つ方法で致死率を下げることができるとの話も聞く。もしこの話が正しく、かつそれをきちんと実行したために下がったのであれば、まさしく、「きちんと手当てをしている」現地の医療チームの決死の活躍の賜物だろう。最大限の敬意を表したい。

※図はWHO12月3日発表のSituation Reportのデータまでを用い、発表3回ごと(およそ5〜7日程度の間隔)に

致死率=(死者数の増分)/(患者数の増分)

として計算したもの。

後日の追記

本来の、疫学で言う「致死率」を計算するときの時間の幅は「5〜7日程度の間隔」ではなく、潜伏期などを考慮に入れた時間の幅を取るべきでした。すみません。まぁ、大略としては、言ってることは間違ってはいないと思います。

ガンプラにおけるイノベーションを見た

最近のプラモデルは全く変わったんだと認識。

その「変わったこと」の中で、最も重要なのは、僕は、「ガニ股」が可能になったことだと思う。股関節を雲台状に接続すればいい、ということはすぐに誰でも思いつくし、それだけならばポリキャップ登場以後はできたはず。(バルキリーだったかバイファムだったか、ポリキャップを初めて見た時には驚愕したものだ)

しかし、少なくとも僕が知っていた時代(ポリキャップ登場後)は、そういう股関節にはならなかった。おかげで、できたプラモで激しく遊んで壊れる(折れる)のはいつも股関節だった。

思うに、長らく「雲台接続」ができなかった原因は、足首だったんじゃないだろうか。足首が前後でない方向に動かないと、足裏が地面と平行にならない。だから足(股関節)を前後以外に開くと立てない(立ったポーズにできない)のだ。

で、今回、次男坊と一緒に作ったシャアザク。この足首がすごい。ホントに足首のような動きができる。バレエのようにつま先を伸ばすように足首を伸ばしたり、写真のように斜め方向に踏みしめるような方向にも曲がる。

これはもうイノベーションと呼んでいいんじゃないか?

世界をどう認識するか

忘れないうちに書いておく;

数ヶ月前のこと。次男(5)に、地図が読めるようになったらいろいろいいなぁ、と思って、あーだこーだと一緒に話をしてみたことがあった。そのとき、割と、2次元の普通の地図は、まぁ、いけるかな、という感触だった。

けれど、彼曰く、「大阪があって、日本があって、地球があって、世界があって、宇宙がある」と言う。まぁ、それはそれで(僕としてはちょっと違和感を感じるけれども言葉としては)正しい。

で、「世界」がどうこうじゃなくて、地球と宇宙の関係の理解があやふやなんじゃないか的な気配を感じたので、地球儀を(北極を上にして)手に持って、「僕らは日本でこう立ってる。けど、裏側のブラジルとか、オーストラリアの人とかは、こんな風に立ってる(地球の中心方向を指し示しながら)んやで」と話した。

すると、次男坊曰く、「そしたら、その(ブラジルとかオーストラリアの)人たち、落ちるやん」と、僕が手に持っている地球儀から床に向かって落ちると指し示しながら主張したのである。

あ、まぁ、いや、まったく、そうだよね。うん。

でも、うん、えーと、…

これはどう説明したものやら。

困ってしまった。

でも、こういうことって、子どもだからじゃなくて、大人でもたくさんあると思う。

そこを敏感に、かつ、丁寧に、「気持ち」を大事に、取り扱えるかどうかが、「科学普及」と「科学コミュニケーション」の違いになっていくのかなぁ、などと思った次第。