文系脳でも理系脳でもない脳

科学コミュニケーションについて勉強中。最近では、異文化コミュニケーションの観点から、こんな風に言われているらしい。

日常生活では、みんなそれぞれに、それぞれの文脈に合った形で(=理屈ではなく経験として)「それぞれの科学」を持っている。日常生活を送る上で、それで不足はなく、仮にその「日常科学」が間違っていたとしても問題が無く、それ相応の理由があるわけなので、それをわざわざ訂正する価値もない。

ドクターコース(大学院の博士後期課程)に進んだ辺りからずーっともやもやしてたことを端的に表してくれていて、ある意味すっきりしたことはしたのだが。
でも、それが本当だとしたら、というか、経験的にはたぶん当たっていると思うのだが、それって、「知」の放棄だよね?「知ること」に価値を見出さないということ。
こういう否定的な言い方をすると、おそらく「自分(俺)のやってることの価値を否定されたからってムキになるなよm9(^Д^)プゲラ」と思われるのが関の山なのだろうが、じゃあ別のことを聞く。
これ、科学だけの話か?
歴史やら文学やら哲学やら教育学やら経済学やら法学やら、そういう「文系的な知」は、みんな「正しく」得ようとしてるか?自分に都合の良い「日常の文脈」で経験知を作っていて、外から仕入れるにしても「日常の文脈に合う」形に整形して取り入れてるってことはないの?それが学問的におかしくても「日常の文脈に合う」なら構わないの?
専門書には遠く及ばない新書ですら、きちんとした「知」を学ぼうとすれば、文系的学問であっても相当の「脳の労働」を伴う。「理系」のそれはよく注目され「めんどくさい。やーめた」という根拠にされがちだが、「自分に取り込むために一所懸命に考えなくてはならず、とても疲れる」ことは、内容や「脳のクセ」の文理差を問わず、共通であるはずだ。そうでなくては「文系学部を卒業しました」なんて微塵も価値はないだろう。
文系脳と理系脳ということについてあれこれ考えていて最近思うこと。それは文系脳でも理系脳でもない、「学問拒否脳」が存在するんじゃないか、ということなんだけど、違うだろうか。「学問拒否脳」は、「それ相応の理由がある」から批判されるべきでない存在なんだろうか。
そして、その元になっている「より正しい知」に価値を認めない、というあり方は、「それぞれの考え方があっていいじゃない」「答えは1つじゃないよ」で済ませていいのだろうか?
より正しい知があるのにそれを置き換えないで自分の都合の良いものを残しておく、ってそれは「知」じゃなくて「信仰」だ。「おまじないをすれば治る」というやつだ。「おまじないしたら治るんだもん」と信じるのは勝手だけど、それと「より正しい知」の価値は必ずしも連動しない。ホメオパシーで騒ぎになったが、信じているからといって「より正しい知」に基づいた医療行為を受けずして死に至る人々を、「日常の文脈に合う」と思ってるから、「それぞれの考え方がある」からって、放っときゃいいって言うのか?