一瞬賢そうに見える話術

ものごとを考える方法に、「分析」と「総合」がある。
それぞれ、厳密には哲学だか何だかで難しい定義がなされているのだが、ここではざっくりとした話。
「分析」は、ものごとを分解し、細かくつぶさに観察することで、それを理解しようとする方法である。細かく分解することで、互いの「違い」を見つけることができる。「分かる」という言葉そのものがそれを表している。
一方「総合」は、いくつかのものごとを合体させたり俯瞰的に見ることで、全体を把握しようとする方法である。部分を見ても視野が狭すぎてわからないことが、全体を見ることで理解できる。ばらばらだった個々のパーツの共通点を見出すこともできる。
このように、表裏一体の「技法」を駆使することが、考えることであり、「知る」ことにつながっていくのである。どちらか一方では足りない。
これを利用(悪用?)すると、一見「この人、賢いのでは?」と思わせることが可能である。
場の話の流れが分析的であれば逆に総合するように話し、場の流れが総合的であれば分析的に話すのである。前者は体験談や世間話、あるいは悩み相談や愚痴に多い「個別の事例」の話題が代表である。いわく、上司が先月○○と言ったからこうしたのに今日は云々、あるいは恋人がどうのこうのお隣さんがどうのこうのと言った「人」に関連する話題に多い。こんなとき、そういった事例に共通する「人間の行動パターン」のようなものに言及する(総合)と、一見賢そうに見える。一方後者は、TVのジャーナリストが十把一絡げ理論を展開しているときに全力でツッコミを入れる感じである。総合してみせるとすごく全体を見渡して抽象化することに成功しているかのように見えるのだが、そういう輩に「いや、あれとこれを一緒にするのはナンセンスでしょ」と言ってやるのである。
ただし、このようなやり取りをするときに気をつけなければいけない落とし穴がある。それは「要するに」という単語である。この言葉は、本当に文字通り「要約すると」という意味ならば良い。しかし得てして、「私に分かる範囲の言葉で言えば」という意味で用いられがちなのである。これはその人の視野の狭さを露呈する以外の何者でもない。自分の既に知っていることしか理解できない、新しい概念を吸収することができないことを意味しているからである。