大変なときこそ「仕組み」で動く

モノ・コト・動く金額・関係者数の大小に関わらず、何らかの「新しい行動」をするとき、その礎となる「原動力」を「やる気」のみに求めるのは、無理である。
いやもっと正確に言うと、「やる気」のみで安定的に「持続」させるのは不可能である。

何か計画を立てたとき、最も難しいのは、それをやり始めることだ、と言われる。だから、計画をごにょごにょ言う前にやり始めよ、なんていうこともよく言われる。
例えば会社に改革が必要な場合なら、その改革の「やり始め」には大きなパワーが必要となる。それを実現できるような社長は、「豪腕」「辣腕」などと呼ばれることになる。だが、その豪腕社長の改革は、成功への見通しができるまでの短期間ならいいけれど、その後、見通しが立って、ミッション・コンプリートまで行き着くまでには、いくら豪腕であっても、なおある程度の時間を要する。その頃になれば、その豪腕社長は、改革の「犠牲者」たちに恨まれ、悪者になっている。

ところで、この法則?は、一人の場合でも成り立つ。例えば何かやろう、自分を変えよう、などと思った時、その「やり始め」の間の短期間は、例えば仕事術などの本を読んだ興奮があるだけで良いが、軌道に乗せて、それを続けていくには、「やる気」あるいは「勢い」だけではダメだ。必ず破綻する。

なぜか?

思うに、生きているということは、「判断」の連続だからだ。新しい試みを始めるということは、新しい判断基準を採用するということだ。新しい判断基準の運用は、一定量の経験を積み事例が蓄積されるまでは、現実にはなかなかスムーズには適用しにくいことも多い。そうすると、過去の「今まではこれでそこそこ上手くいってた」判断基準のほうが懐古趣味的に思い出され、やる気の減退を招く。

だから、新しい試みを定着させるには、ストレスがあっても「新基準」を使えるようハードルを低くすることが必要になると考えられる。ハードルが高いとやる気が必要になるので、何度も何度もそういう「次どうするの?」と考えなければいけない機会があると、その度に心のエネルギーを消費し、くたびれていく。
だが、1回の判断に伴うハードルを下げるには、先に述べたように、経験が必要になる。
それを解決するために一番簡単な方法は、「判断」の機会を減らすことだ。ハードルの高さを変えずに、ハードルを跳び越す回数を減らすのである。ハードルの数は自分の都合では変えられないので、自分でハードルを跳ばないためにはどうすればよいか、ということになる。
それはつまり、「判断」を外部に委託する‥‥「仕組み」を作って自分が考えなくても済むようにすることである。それが、いま巷にあふれる「なんとか術」「なんとか力」とかいう本に書かれていることである。

「勢い」のあるうちに、その次の「やる気が減退しても続けられるような仕組み」を用意しておかなければ、絶対に失速する。人の気持ちは移ろいやすいのだ。

自分でやろうと思ったことが挫折してしまうのなら、それは自分の中だけで完結することだからまだ良い。外部の事情で、強制的に生活様式の変化を余儀なくされた場合、これはある意味で死活問題となる。破綻したからといって元に戻れないからである。

正直な話、いま、オレは破綻している。もうオレのいろいろの許容量を遥かに上回るいろいろがあれこれと積もっている。保育園の先生からは、「そんなに頑張らなくても」と言われる。おそらく、きちんと持っていくもの云々を揃えたり、ストックしている衣類やオムツをキープしたり、しつけの方法を取材したりと言った、とてもオレがやってるとは思えない神経質っぷりに驚いているのだろうと思う。だが、そんなもの性格でやってるのではない。保育園のやりかたに依存しそれをキープすることのみに集中することで初めて生活が回る、のである。テキトーにやるということは、それだけ自分の判断が増えることになる。そんなん無理。だからこそ、今までになく几帳面に、神経質なまでに管理しているのだ。自宅だってそうだ。もう、能動的に片付けなければ生活が維持できない。こんなことは、かーちゃんが入院しなければあり得ない現象である。片付けなんて自然に達成される「平衡状態」でええやん、と、今だって思っているのである。だがそれでは、今は、無理なのだ。

こうやって忙しいのに更新を書くのも、その一環なのである。書かないと考えがまとまらないのである。脳内の「お片付け」には、アウトプットするのが一番手っ取り早い。

ちょっと書いてすっきりした。寝よ。