「科学マジック」は成立するか?

この週末3日間は、地域の小中高大および関連団体が総出で開催する或る一般向けの科学イベントの実行委員としててんやわんやであった。今日の午後〜明日あたりで筋肉痛が来るだろう。既に腰がパンパンに張ってる感じがしている。
内容は、小中学生ぐらいをターゲットとした、科学に興味を持ってもらい、あわよくば科学の解説をしようと企むアトラクションが各ブースで行われている、というものだ。
「やっぱりな」と予想通りであったのだが、少なからぬ数の出展のタイトルで、「マジック」の単語が使われていた。つまり、でんじろう氏がTVでよく行っているようなサイエンス・パフォーマンスをフック(きっかけ)にして、科学の解説をするものである(本来ならこの解説それ自体もパフォーマンスであるべきもののような気はする)。
しかしながら、これらのパフォーマンスの主たる目的は、内在する科学、裏で起こっていることを見せることである。つまり、マジックで言うところのタネ明かしが目的なのである。しかも、そのパフォーマンスができるようになるためのレクチャーでもない(パフォーマンスが目的ではないから)。レクチャーならわかるが、タネ明かしのみを目的としたマジックなど成立しない。不思議を楽しんでもらうのがマジックなのに、不思議の解説が前提というのはどう考えてもおかしい。従って、「マジック」という形態をとった科学の解説は、マジックを冒涜しているとも言えよう。

この事情は、「数理マジック」と比較するとわかりやすいかもしれない。数理マジックの場合、その数理っぽさを消すために苦心するのが普通である。同じように、科学「マジック」と銘打つならば、裏の事情として科学的原理を駆使したければすればよいのであって、それを解説しないことが条件となる。数理的原理を解説するための数理マジックなど聞いたことが無い。そうであるなら、観客からすれば、科学が一枚噛んでいるかどうかなど見ていて分からない(ように実演されるべきな)ので、呼称に「科学」を付けることに意味が無くなってしまう。
※もちろん、「メンタルマジック」「カードマジック」のように、マジシャン側の知識の整理のための呼称としての「科学マジック」は存在する。

話を元に戻す。
科学をマジック仕立てで伝える、という行為は、伝えたいコンテンツから考えても変なのだ。
本当に伝えたいのは、科学の不変性というか、普遍性というか、この世を支配している「法則」としての科学であるはずだ。あくまでも、パフォーマンス(この場合はマジック)は、その導入、フックに過ぎないはずだ。なのに、マジック(→タネ明かし)の形態をとってしまうと、問題が矮小化され、解説の焦点は「そのマジック」の話で終わってしまう。マジックのタネ明かしをして納得した後の観客に、さらに一般化・抽象化する話を聞かせるのは容易ではない。タネ明かしが終わった瞬間に他のブースに行ってしまうか、しょうがなく続きを聞いているが「早く終わればいいのに」と思ってるか、が普通の観客のリアクションであろう。

どうして、普通にパフォーマンスするだけではダメなのだろう。科学でコントロールされた現象は、その原理を知らない者にとっては魔法以外の何者でもない。地域的原因にせよ、ジャングルに居て戦後であることを知らなかったにせよ、タイムマシンで過去から連れてきたにせよ、「未開の人々」にとって、例えばTVはどう考えても人間が中に入っているようにしか見えないだろう。ケータイどころか電話だって、「こいつ延々と独り言しゃべってる。アタマおかしいんじゃないのか?」と思われることだろう。ラジコンカーなど、未知の生命体である。
科学は、そのままでも不思議で、魅力的なのである。何もマジック仕立てにする必要はないはずなのだ。