ドストエフスキー事件に見る理系イメージ


 「ドストエフスキーって誰なんですか?」


 ‥‥と東大生から問われた教員が絶句した、という逸話。この「ドストエフスキーを知らない」ことについて、どの部分をどのように「問題だ!!」と声を荒げるか、それはいろんな立場があるだろう。小文では、「ドストエフスキー」を「ファラデー」に換えても、同じ議論が成立するのか?ということを取り上げてみたい。*1

 はっきり言って、同じ議論は、成立しないよね。「それ専門知識だから」って言うよね。
 それって、おかしくない?

 ドストエフスキーは「知っといたほうがいいこと」とみんな口を揃えて言うのだが、今の個々人の生活への影響度はもちろん社会のあり方にも大きく影響を及ぼした「規模」の点でも、「知っておいた方がいい度」はファラデーの圧勝だろう。ドストエフスキーの作品が世に出なくても人間社会は大きくは変わっていないだろうが、ファラデーの業績が世に出なければ人間社会はこうはなっていない。例えば我々が「電気」を使えるのはファラデーのおかげなのだから。それほど大きな影響を及ぼした人を知らないことは、「教養を欠く」とは言わないのか?
 確かに、ファラデーの「やったこと」の恩恵に預かっているからといってその中身を知る必要はないのかもしれない。ブラックボックスでいいのかもしれない。であるならば、ドストエフスキーでも同じことが言えるはずだ。立場が違えば、ドストエフスキー(単に「知ってる人と知らない人がいる」なんて矮小化することなく)「専門」であると言っていいはずなのだ。‥‥にも関わらずこの扱いの差は何なのか。文学だから?物理だから??あるいは、文学か物理かというコンテンツの問題ではなくて「名前を言えたらカッコイイかどうか」の問題なのでは???だとすると、「名前を言えたらカッコイイのは科学者 or 文豪?」って問題に帰着してしまうのか????(そう言えば、「文豪」はあるけど「科学豪」ってないよね)

 何が言いたいかと言うと、そういうところに、科学が「みんなの知識」になれない理由があるような気がするのだ。「科学離れ」「理科離れ」という言葉が人口に膾炙して久しいけれど、どうにもまどろっこしいというか、本質に迫っていないというか‥‥どれもこれも、科学の「伝え方」の善し悪しに原因を求めていて、その「コンテンツそのものが持つ性質」が原因である可能性に迫っていないような気がするのだ。あるいは、ある時、「理系な立場から提案する教養書ってどんなのがある?」と尋ねられて即答できなかったことがあったけれど、その理由も、そこにあるような気がする。

 それはおそらく、本質的に「教養とは何か?」と表裏一体の「専門とは何か?」という問いなのだ。

 高校生の半ばで、受験科目の選択という理由で、いわゆる「理系」という道を歩むことを決めてしまったが最後、「理系」の人間がつらい思いをして「勉めて強いて」身に付けたものは全て「専門だから」という理由で「みんな」から捨てられるようなことなんだろうか?
 「理系なあれこれ」を捨てている「みんな」って誰なんだろうか?
 僕を含め「理系」と呼ばれる人々がやっていることは、どこからが「専門」なのだろうか?
 ドストエフスキーを読むことは、なぜ「専門」扱いにならないのだろうか?



 あるいは「専門」がそんなに簡単に捨てられがちなものであるなら、それを知っている人が少ないわけだから、専門とは「それを知っていても、周りに知ってる人がほとんど居ないから、価値をわかってもらえない」ものなのかもしれない。それは十分あり得る。ちょっと数学的帰納法的な感じだけども(笑)。でもある意味では逆に「すぐに価値をわかってもらえない知識が専門」という定義は可能かもしれない。ただし、未来に「みんながその価値をわかるような社会」が到来するなら話は変わってくるのだろうけど。
 どういう価値があるかと言えば、それはいろいろあるけれど、一つ重要なことは、「科学」を自分の中に持っていると(「役に立つ」という安っぽい次元ではなく)世界を見る「目」が変わることだと考えている。裏にあるものが見えるようになる、とでも言えようか。
 一つ面白い(と僕が思っている)例を挙げよう。かの天才ニーチェが、もし、もう少し(?)長生きして、「20世紀最大の科学の発見」との呼び声の高い「カオス」をちょっとでもかじっていたら‥‥そう、実際にニーチェが当時の物理学の最先端だった熱力学をちょっとかじっていたようにカオス理論を少しでも知っていたなら、「永遠回帰」などというアイデアは出なかっただろう。「永遠回帰」とは、昔からある「世界は物理法則に支配されているので初期値で決まる」という「系の初期値依存性」の問題を「いずれ初期値に戻ってくることがあるはず、だって確率はゼロじゃないじゃん」として周期境界条件と見なす一種の宇宙論モデルに基づいて「この世は何をどうあがいてもどうせ(物理法則に従って)同じことが起こり続けるんだから何してもムダ」というニヒリズムに至る、という、当時のエネルギー保存法則研究にインスパイアされたアイデアであり、その呪縛から人間を解放するためのアイデアが「超人」思想である‥‥と僕は理解している(違ったらごめんなさい)。だからカオス理論を知った瞬間にこの話は終わる。まぁ、ニーチェはそのような科学的態度をも「この世でないところにある何かを追い求める態度」と見なして退けるのではあるけれど。

 話を戻すと、そのような「科学というフィルターを通した世界」が嫌いだという人も当然いるだろうから、すぐに価値がわかるかどうかというよりも、それこそ単純に好き嫌いの問題かもしれない。
 いや、ちょっと待てよ。「すぐには価値がわからないけれど知っておいたほうが良いことが教養」という言い方もあったような‥‥




 またしても「教養とは何か」という答えの無い問いの罠に戻ってしまいそうなので、ちょっと方向を変えてみよう。この「科学と教養」あるいは「専門と教養」の関係という着眼点から派生することを、2つ挙げてみる。

 一つは、以前からもやもやしていること。それは、「いわゆる理系な人」と「いわゆる人文社会系な人(以下、簡単に「文系な人」と呼ぶことにする)」とで、「相手側の文化に対する態度」に大きな差があることである。一言で言って「理系な人」は「文系文化」を「わかろうと努力してみてからものを言う」のに対して、「文系な人」は「理系文化」を「努力もしていないのにものを言う」ということだ。
 確かに、「〇〇って、要するにこういうことでしょ?」「◯×△さんって、こういう人だよね」という具合に、概念的に「つかんだ」と思えることはとても重要なことだ。それが無ければ、「次」へ進むためのハードルは高いままだ。しかし、それはあくまでも、「わかった」という気になった=未知の相手のもつ「未知」という溜飲を下げたという「自己救済」でしかない‥‥というと言い過ぎだろうか。
 僕は理系地方出身で理系方言しか話せないのだけれど、それなりに外界と接して学んだこと、それに加えて「科学コミュニケーション」と呼ばれる分野について試行錯誤してきた経験を踏まえて言うと、「科学」とは「実践知」と呼ばれるものではないだろうか。「科学は『手続き』である」とよく言われるが、そのちょっとした拡張である(そう言えば、哲学は「哲学する(think)」ことが本質であって、その作業が完了してしまった成果物=思想=thoughtは哲学ではない、というようなことを言ってた人がいたな…永井均だったかな?)。そういう「手続き」あるいは「行いの連鎖」の中にこそ「知恵の精髄」が詰まった科学なるものを、それなりの労力を払って「実践した」人間からすれば、「科学と宗教は構造的に同じ」なんていう言説は「経験的に」笑止千万なのだが、やらないとわからないので、やってもいない人にはわかりようがない。「科学的に明らか」と「論理的に明らか」は、まるで違うのだ(余談だが、僕はその辺のところを「合理的」という言葉で言えたらいいなぁ、と考えている)

 もう一つは‥‥これまた「経験的」な話になってしまうのだけれど‥‥「科学の専門家が、専門でない私たちにわかりやすく解説してくれる講演会」「みんなで楽しもう!サイエンスマジックショー」のようなものがあるのはみんなご存知だろう。政府も長年「科学技術立国・日本」を支える人材を育成するべく、「科学普及」を推進しようとしている。しかし様々な「科学事件」を経験してきた現代の世界、科学に対する無垢な信頼が失われた今では、科学を専門家が市民に一方的に「普及」する以前に、科学と市民が双方向にやり取りする「科学コミュニケーション」が重要なのだ、とされている。そしてそのような科学コミュニケーション活動も行われている。僕も日々の業務の中でかなりのウェイトを占めてきた。その経験から、僕が最近痛感するのは、良さであれ悪さであれ、科学をひとに語り、伝える、ということに絶望し、あきらめてからが、本当の「科学コミュニケーション」ではないか、ということだ。それは決して科学的な何かを無価値だと言っているのではないし、もちろん「宗教だ」というレベルに戻るわけでもない。科学を「自分と関係ない」と言う人‥‥それは世の中の90%以上だというのが僕の体感である。ほとんどのひとが、「科学は重要だ」と思ってはいるけれど、そのほとんどの人が「自分とは直接関係のないところで誰かがやってくれればいい」と思っている。そして、そう思っている大多数の人‥‥「文系の人」‥‥に対峙した時の「科学の無力さ」を思い知ってからでないと、そもそも会話が成立しない‥‥それが僕の今の実感である。

 科学が「専門」だと呼ばれるのは、あるいはファラデーがドストエフスキーになれないのは、「専門」という言葉が「それは自分とは関係ない」と遠回しに言うための言葉になってしまっているからなのかもしれないな、と僕は思う。

*1:いや、マックスウェルでもいいけど、知名度で言えばファラデーのほうが上かなーと‥‥ボーアのほうが良かったかな?いやシュレディンガー?古典という意味では、むしろニュートンの力学の3原則になぞらえるべきか‥‥物理学の、いや科学の根底の基礎の基礎であるニュートンの3法則を言えない人がほとんどのはずだし