サイエンスカフェ:最近の活動記録と雑感

先月と今月、1日ずつ、地元の方々向けの出前授業科目のため、我が社のサテライトオフィスに行って来た。その科目は月に1回のペースで開講されていて、5月と6月の回は僕が担当だったのだ。「担当」と言っても、単に自分が講義をするだけではなくて(そもそも13時〜17時の4時間をぶっ続けでしゃべるのは結構キツい)、招待講師の人選や依頼するテーマ選定、授業時間全体のデザイン、なども「担当」した。そもそもこの科目全体のデザインも、僕は大幅に関与している。5月には紀伊半島の気候についてと、かつての後輩であり恩師でもあるF氏を招いてジオツーリズムというコンテンツについて扱い、6月はFm氏&M氏(実は5月のゲスト・F君のお友達らしい!世の中狭いものだ)を招いてジオパークについて扱った。それぞれ4時間の講義。

で、それぞれの講義の「本編」の終了後には、サテライトオフィスが入居している施設の中庭で、サイエンスカフェイベント「ジオカフェ」を行った。招待した先生方にもそのまま登板してもらい、5月は第4回「地球を10倍楽しむ方法」、6月は第5回「ジオパークって、実際どうなんですか?」と題して、「本編」では言わなかった「ぶっちゃけ話」を参加者の方々とやり取りする企画とした。

以前からサイエンスカフェイベントをやりながら薄々感じていたこと。それは、ファシリテーター、言ってみれば「進行役」の必要性である。科学者とお客様の橋渡しをしつつ、みんなが話しやすい環境を作る人。まさにそれこそが「科学コミュニケーター」の役割である。それまで僕が招かれたカフェイベントがたまたまそうだっただけなのかもしれないが、話題提供者として登板した僕が、話題提供だけでなく会話の進行も全体の司会も全部1人で担当する形式ばかりだった。どうにもうまくいかないもどかしさを感じていた。

そこで今回、特に5月の回のゲストであるF君が旧知の飲み仲間だったこともあり、彼なら大丈夫であることを知っていたので、対談形式っぽくしてみた。僕はF君のお話を引き出すファシリテーター役に専念したわけだ。これが非常にうまくいった。個人的な感覚としては「めちゃくちゃうまくいった」。もちろん、F君が空気を読める人であることは大きいのだが、僕自身が仕事に集中できたし、1人でやるとすぐに発生する「講演会状態」(あるいは「独演会状態」)も回避できた。やはりサイエンスカフェイベントは1人でやってはいけないのだと確信した。

6月のカフェではFm・M両氏と3人鼎談形式となった。このとき、事情があったのか、イベント告知ポスター&チラシに記載された時間枠が2時間になっていた。もっと短く切り上げてもよかったのかもしれないのだが、この告知だけを見て申し込んだお客様もいらっしゃるので、なんとか2時間引っ張った。引っ張ったのだが……かなりキツかった。カフェで2時間は正直しんどい。僕の体感だけで言えば、90分が限界。これも勉強になった。

また、以前から採用していることとして、できるだけ(科学者にとって)挑発的なテーマを設定することと、質問用紙を配ること、がある。前者は、僕の守備範囲をはみ出していることをわかった上で設定しているし、できればそれがわかるようなタイトルにしようとしている(以前には「惑星探査の適正価格」なんてのもあった)。そうでなければ対等な議論にならないからだ。また後者は、普通の人々は「偉い人の話を聞く」ことに慣れきってしまっていて、いきなり「議論しろ」「発言しろ」と言っても無理だけれど、紙と鉛筆を渡しておけばけっこう自由に書いてくれることがわかってきたからだ。書いてもらった質問用紙を集めて紹介・回答するコーナーは「疑似ディスカッション空間」でもあり、わざわざ時間を取る価値はある、という手応えを感じる。

もちろん失敗もある。つい先日登板した宇宙カフェ「上から降ってくるもの」では、文字通り上から降ってくるものなら何でも話題にしようという挑戦だったのだけれど、あまりにも漠然としていて話題提供者として準備不能‥‥とも言ってられないので、せめて最近の話題としてPM2.5とロシア・チェリャビンスク隕石の話をイベント前半・後半に分けて少し話そうかと思い、ほとんど知識ゼロ状態から準備した。本番では、無意識の焦りのようなものなのだろうと思うのだけれど、「準備したから話さなければ」とばかりに、話し過ぎてしまった。自分が知っていることは話したくなってしまうものだが、それをグッとこらえなければならない……いつも自分の講義ではそう言っているのに、我慢できなかった。不覚。ちなみに、この時も特任助教のYさんにご登板頂き、対談形式にさせてもらったが、それ自体はやはりやりやすかったし、クオリティも良かったのではなかろうか。(と思いたい)

しかしそれにしても、まだまだサイエンスカフェというものはよくわからない。本家本元のヨーロッパのものと異なる「日本型のサイエンスカフェ」の問題点は確かにある。これをどう克服しつつ、かつ、どう日本人的に最適化すべきなのか。「対等な交流を目指す」と言うのは簡単だけれど、それをどう形にするのか。そして何より、科学コンテンツを扱いつつ楽しめるものにするにはどうしたらいいのか。

「科学をひとに伝えること」に挫折してから、心が折れてからが、ほんとうの科学コミュニケーションだと思う。それはどんどん確信になっていっている。

試行錯誤は続く。