大学は学問するとこじゃない…そのとき学者は?

「大学生の間にしか出来ないこと」は「大学生の間にするべきこと」と一致しないし、「大学でしか出来ないこと」とも、「大学でなすべきこと」とも一致しない。

ただ、大学には学問という資源があるし、基本的にはそれしかない(メインコンテンツ担当者が学者なんだから。後述)。単に専門書と専門的研究に没頭する設備が欲しいだけなら図書館と実験室があればいい。部活やサークル活動をしたいだけなら受講時間や学費がもったいない。そう考えていくと、最後に残るもの、即ち「大学にしかないもの」とは、「学者」なる生き物が生息していること、そのような生物と接すことができること、その能力を利用できることなのだ。そういうコンテンツを使いに来ないのなら、大学に来る意味は無い、と僕には思われるんだが、近頃は大学は就活機関なので、そうでもないらしい。

まぁ、「大学生の学び」と「大学での学び」が乖離してるってことなんだろうなぁ。

こう言うと「勉強しろ」と小言ばかりのうざい話と思うのだろうが、本稿で言いたいことはむしろ逆で、僕はむしろ悩んでいる、というのが本題だ。

現場に出て人々と接していて体験的に痛感するのだけど、世の人々は学問なんてまるで求めていない。だから大学生が学問を求めないのは当然の流れ。大学に学問する人間=学者なんて不要で、「先生」がいればいい。

あるいは、我が社に限らず、大学の進んでいる方向や、大学が進むべきとされる方向、それに対する実際の大学生たちの反応、そして僕が接してきた皆さん、特に「これだから学者は」「机上の理論ばかり振りかざして」とおっしゃる方々を見ていると、そもそも「学問」ってもう要らないよね、捨てちゃえば?大学も「学校」になっちゃえばええやん?学生じゃなくて「生徒」になっちゃえばええやん?と思ってしまう。

最近見かけた新聞記事でも、大学は事実上、教育機関としての「最後の砦」だと、そういう役割を果たさなければならない時代なのだと、どこかの大学の学長さん(だったかな?)が言っていた。大学全入時代の大学の役割についての文脈ではあるけれど、これが何を意味するかというと、「高等教育機関」なんて名ばかりで、実際に社会から求められている役割は「社会人としての最低限のスキルを身につけさせるところ」なのだ。「高等」教育なんてものをしている場合ではなくて、「最低限度の教育」をするところなのだ。その意味で、「高等」な(?)学問をする学者ではなく、「最後の学校」の「先生」が求められているのだ。

…と言うと、「いやいやいやいやそんなことないない」とおっしゃるのが世の常(笑)。けれども、大学や研究機関の外のいろんな方々と話していて確かに感じるのは、「学問する人は世の中のどこかには必要だけど、自分とは関係ないところでやって欲しい」という暗黙的な共通感覚。じゃあ、学問する人って、いや、僕はどこに行けばいいの?

ま、世間知らずの僕が世の中を語っても何の説得力もないんだけどもwww

とは言え、一つ、僕が「これは間違いない」と考えていることがある。何かと言うと、「誰も、学問を『自分のこと』として求めてはいない」ということ。これはたぶん、勝手な「自説」じゃなくて、あるべき論と関係なく受け入れざるを得ない「観測事実」と言っていいと思う。観測事実だから仕方が無い、なるほど、このことは受け入れるとして、その次にどうすべきかわからない。

こんな状況で「大学生は学問すべきだ」なんて、とても言えないんだよね。で、そこまではいいのだけど(いいのかな(^^;)、少なくとも「留学経験/カリスマ経営者の講演/バイトやサークルでの経験が役に立ちました!」を学生が主張するようでは、大学教員要らないよね、という、さっきの話になるわけ。最初に書いた「大学にしかないもの」は評価の対象外、NO!を突きつけられているのだから。

だからむしろ、「学者風情が理論や自説を」という方々に、僕たち学者は何をしたらいいですか?と教えて頂きたい。僕たち学者は、もう既に「要らない子」なんだよね(その自覚のない学者センセイが圧倒的に多いのが、これまた困ったことなのだが…)