教養ゼミの自分的総括

今年度後期から、我が社の教養教育改革の目玉商品の一つである、「教養のゼミナール」がスタートした。最初の半期が終わったので、自分なりに総括メモ。
「最初の半期」と書いたが、これからずっと続いていく。合計3年分の単位を取れれば、金メダルというか、「あなたは教養を身につけた証明書」が発行されるというもの。
ふつう、専門教育に移行する前の「基礎として身につけるべき事柄」を「一般教養」とし、「パンキョー」と通称されるが、これはダメだろうと。専門教育4年間と同格として並び立つ専門でない教育、あるいはより高度なものとして、「教養」という言葉を使いましょう、という考えがベースにある。
教養教育を司るセンターの長を始め、関係教員が5人も毎回顔を出しているというリッチなゼミでもある。

最後の挨拶でセンター長が言ってた、「この講座は、できるだけ変な講座にする」って言ってたのが興味深い。今までに無い授業をしよう、そのためには、産みの苦しみを伴う、というのはわかる。ただ、いくらそうであるとは言え、僕には、全く「エキサイティングな瞬間」が無かった。何をやっているかわからない時間がとても多かったが、それでも、エキサイティングであれば我慢できた。

教える・教えられるの関係(講義)ではなく、議論の中から何かを産み出そう、というのは、スローガンとしてはかっこいい。だが、それが成り立つのは、「最前線」であるときだ。議論の中からは、「既知のことをどうやって見直すか(再発見)」しかあり得ない。どうしても「知らないこと」あるいは「持っていない知識」は、自分で外界へ向かって探す営みをしない限り、他人から注入されなければ得ることはできない。「知らないこと」を議論の中で誰かから得る、というなら、その人を捕まえて講義してもらうほうが効率が圧倒的に良い。

「再発見」というのは、人文・社会系の学問の得意とするところだ。というか、そういう営みが大半を占めているように、僕には見える。それはとても「教養っぽい」ことの一種だとは思うけれど、あくまでも一種。そればっかりだと、「もういいよ勝手にごちゃごちゃ言ってろ」「理屈こねてばっかりじゃねーか何か結果出せよ」という気分になってくるのは、僕がサイエンス畑出身だから、だけではなかろう。

ちゃんと作り込んだ授業をするのは陳腐である、というのもよくわかる。だからと言って、現状では、あまりにいい加減なのではなかろうか。レクチャーではなくアクティブラーニング的に何かを生み出そうとするのなら、それはそれで「仕掛け」が必要だろう。