「学び」は観光の目的になり得るか?

社会構造の発達に伴い、人々の暮らしを構成する要素として「労働」以外に「余暇」という時間が現れ始めた。この「余暇」が生まれたからこそ、観光という行動の選択肢ができた。

観光史の、いわば基本中の基本のネタである。

観光は「余暇」で行うもの。余暇時間が登場してから、観光が発達した。それは同時に、観光が「労働」と対になる概念を内包するということでもある。

いまの日本において、「学び」は、学校教育システムと結びついて、いわゆる「就労」以前の年代が義務として行わねばならない「役務」として存在している。生涯学習的な観点、あるいは、もっと単純・純粋に知的好奇心を充足する活動としての「学び」の捉え方が、「学校のお勉強(←「勉めて」「強いる」もの)」という感覚よりも優先されるような人には、僕はお目にかかった事が無い。

このことは、「学び」は「労働」に極めて近い認識をされていることと等しい。これを認めるのであれば、「学び」は観光の目的になり得るのか?という問いの答えは「否」になる。

本当にそうなの?

観光とは「余暇」、すなわち「労働でない時間」に行うもの。従って、「労働とは何か」を知ることが、「観光とは何か」を知るための重要なヒントになる。「労働とは何か」を考えるためには、マルクスを無視するわけにはいかない。であれば、「学びは観光の目的になり得るか?」の答えは、マルクスが「学び」あるいは「学校」をどのように捉えているのか、その中にありそうな気がする。

いずれ、機会があったら、ゼミ生にマルクス資本論』をがっつり読ませてるらしい上司に尋ねてみようと思う。