「学者」は何のために存在するのか?〜「文脈モデル」への疑問

科学コミュニケーション業界において、科学情報の「受け手」のモデルとして、2つが提唱された。
1つは誰でも思いつく、「知ってる人(学者)が知らない人(一般市民)へ知識を注入する」というモデル。このモデルは、情報の「受け手」である一般市民には(科学的な)知識が「欠如」しているという発想から始まっているため、「欠如モデル」と呼ばれる。
もう1つは、その「欠如モデル」では説明できないことがたくさんあるためこれを見直そうという機運が生まれたあと編み出された「文脈モデル」である。これは、一般市民には知識がないのではなく、市民は市民なりの生活の「文脈」の中で、市民は市民なりの「理解」をして、市民は市民なりの「知」を身につけているのだ、ということを前提としようというものだ。その「知」をローカルナレッジと呼び、それを尊重することから科学コミュニケーションを始めよう、と高らかに謳い上げる。
一見すると非常に素晴らしい理論のようにみえるが、ちょっと待って欲しい。
確かに、一般市民は、自分たち独自の「知」を持っていて、それで十分に生きて行けている。実際問題として、「科学技術なしには語れない世の中」だから「科学技術の知識は不可欠だ」とよく言われる割には、知らなくたって全然平気である。だからこそ、大人の科学リテラシー普及が進まないのだと俺は考えている。「勉強」するための「必要性」がないのである。「勉強」は「(自らに)強いることに勉める」のだから、このクソ忙しい現代で、そんなめんどくさいこと必要も無いのに誰もやるわけがないのである。古代ギリシャ時代の「身の周りの世界への理解」であったって、別にほとんど修正すること無く今を生きて行くことができるだろう。
もしそれらの「生活するに充分なレベル」の、古代と同程度の「知」‥‥学問が専門分化する以前の理解のしかたこそ本当の意味での「生活の中で得られる文脈」だろう、なぜならそれらは生活の中での思索しか方法のない時代に生まれた「知」なのだから‥‥、専門家としての「学者」は、いったい何のために存在するのだろう?科学コミュニケーションの必要性って何だというのだろう?何をコミュニケートするのだろう?
俺の個人的経験の範疇では、科学コミュニケーションの場というか、「学者としての俺」との会話を要求してくる、双方向に議論をしようというそぶりを見せる人は、9割近くが「自分が思索の末に編み出した説にYesと言わせたい」人である。つまり、学者としての「知」を求めてくるように見えて、実は俺の解説などどうでもよいのである(ちなみに残りの1割?は、何かのテーマに出会って「それをどう考えていいかわからない」から「見解を求める」ケースである)。ましてや、そのご高説を現代科学で否定しようものなら‥‥。
ま、俺もそうらしいんだけっどもさ。ははっ

結局のところ、理論的にも「欠如モデル」が否定され、現場の体感・経験則としても「文脈モデル」になってしまうのであれば、要するに、「コミュニケートされるべきもの」は「知」ではないのだと考えれば、すっきりするのかな、と思う。

では何が?‥‥現時点での俺の回答は、科学者に限定されてしまうが*1、科学者の存在意義は、「科学的態度」である。定量性と合理性である。再現性(客観性)は定量性に含められるのかなと思う。そして、論理性は合理性に含めても良いが、逆は成り立たない、というのが俺の主張であるのだが、さてこれからこの「自説」はどのように評価されていくのだろうか??

*1:学者一般に広げるなら、その価値は「考える」姿にある、と言って良いかもしれない。一般に言われる「考える」は、学者の世界では、本を「眺めている」とか何かを「思い浮かべている」と呼ばれる行為に近いと思う。