「理学」とはこういうものであったか。

今、かつての師匠の昇任祝賀会から帰宅した。
師匠も、そして囲む皆さんも、相変わらずであった。
師匠は、うーん、「地球物理学」の人である。この表現を許すなら、師匠は、「地学」の人ではない。「物理」が芯に通った人なのである。事実が先にあるのではなく、物理が先にある。「論より証拠」があり得ない文化、を、骨の髄で理解している人である。現在の師匠のスタイルがそうであるかどうかは関係なく、そういうことを「知っている」という人である。
囲む皆さんは、そういう薫陶を受けた人々であった。いわゆる「地学」とされる、「地質」の人もいたが、博物学的ななにそれではダメである、という言説を信奉することができる人であった。
しかし、師匠は、そういった云々の、まさに文字通り斜め上を突き進んでいた。
斜め上だからこそ、自分自身が存在し得る、というのだろうか。
昨今、「評価」という名で「どれだけ成果を挙げられたか」という報告をさせられる。それに対して、「いや、そういう問題ではない」とか、「それに十分に応えた先に存在価値がある」とか、いろいろあるけど、そういうんじゃないんだなと思った。「評価」を超越するというのはこういうことなのかと、思った。

素晴らしい先生との出会いを、今さらながら、感謝したいと思う。乾杯!!