拡張プレゼン道:プレゼンテーションとは何か?

もともと、「広告会社が、広告主に対して説明すること」を指す言葉だったらしい。しかし現状ではもちろんもっともっと広い範囲で用いられる言葉である。そこで、私なりに現在の「プレゼンテーション」という言葉を定義してみると、こうなる。

「自分の話を相手に伝え、理解してもら(って何かしてもら)うこと。」

まず一つ確実に言えることは、「話す人」と「聞く人」が存在しているということだ。平林氏によれば、presentationという単語を分解して、その心を「前に(pre)いる(sent)」こと、つまり「聞く人の前に実物の話す人がいること」としている。録画を使う通信講座や、あるいはTV会議のようなものはプレゼンテーションとは言わないわけだ。

「話す」ということ

多くの場合、話し手はしゃべりたいだけである。相手の理解など最初から気にしていない。よく挙げられる例としては「おばちゃんの井戸端会議」がある。「最近ね、向かいのマンションから変な音が聞こえるのよ!」「あらそう、そういえば私の実家から漬け物を送ってきてね、‥‥」というように全く会話になっていない。似て非なる例としては、「話すのが商売の人との雑談」というのもある。「話すのが商売の人」というのはこの場合、学校のベテラン先生とか、講演会で呼ばれることに慣れている偉い学者、などを指している。こういう人々は、初めのうちこそ「会話」のような形になっているが、すぐに持論・自説を披露しようとするのである。小学校の先生なんかの場合、気付いたら説教を始めていることが多い。いずれにせよ人の話は聞いていない。

松田教授によれば、話すということは、「思想の排泄行為」である。溜めていると具合が悪くなり、出したらスッキリする。悩み事や愚痴は、たいていの場合、話せば終わりである。他人の悩みや愚痴を聞くときに言ってはいけない単語は「でもね」である。いくら腹が立っても黙って聞くしか無い。排泄されたものを受け取る方はたまったものではない。フロイトによれば、排泄に伴う感覚は人間が最初に覚える快感であるが、その意味では、話すことが「思想の排泄行為」と喩えるのは言い得て妙である。話すことは本質的に快感であり、聞くこと(聞かされること)は本質的に苦痛なのである。

少し脱線すると、聞くという行為は確かに苦痛であるが、上手に「聞く」ことができれば、人間関係構築・維持の点で極めて効果的である。そのための訓練はいろいろあるが、いずれにせよその訓練が「いつでもできる」ことは一つのポイントと言える。心がけ次第でどんどん聞き上手になれるということだ。

話を戻す。プレゼンというのは、上で見たように、「話す」ことと「聞く」ということで成立する。そして聞くことには苦痛を伴うのである。従って、プレゼンは本質的に相手に苦痛を強いる行為なのだ。そう考えれば、話し手が考えなければいけないこと、しなければいけない工夫‥‥つまりプレゼンテーションの方法論‥‥は、自ずから明らかであろう。少しでも相手の苦痛を和らげること、この一点につきるのである。上手にカッコ良く話すことを目指していては失敗する。

そのために、先ほど「脱線」として紹介した「聞く練習」が役に立つのである。聞き手の立場になり、どのように話せばイライラするのか、何をすると気が散るのか等々、聞く作業のジャマになるのは何か、聞きながら話し手を観察するのである。聞き手の気持ちを知り、苦痛の源を探る訓練を積むことで、逆に「話す」「伝える」という行為が何なのか、ということが「見えて」くる。相手の立場に立って話せるようになる。それは即ち話している自分がどんな風に映るかを把握しながら話せるということだ。「ワタシって○○な人間なので‥‥」と言い放って周囲を困らせる人が結構いるが、自分自身がどういうものなのかを知ることは極めて難しい。それを鑑みれば、この「自分がどう映るかを知ること」こそ究極のプレゼンテーション・テクニックではないだろうか?

‥‥と、ここまで考えてみて得られた「相手の気持ちを考えて話す」ということは、極めて常識的な、普通の、コミュニケーションの基本である。

つまり、プレゼンが上手ということは、基本的なコミュニケーションが上手ということであり、逆もまた真でもあるわけだ。本プレゼン論を通じて、コミュニケーション能力が向上すること、それが本当の目的である。