等価な見返りを期待するほうがおかしい

普通、大抵の人は、「してもらったこと」の全部に気づくことはないだろう。
逆の言い方だと、「大抵の人は、気づかないうちに周りの人の親切に助けられている」とでもなるだろうか。
何割ぐらいの親切に気づくことができるのか、というのは難しいところだが、ここでは一声「半分」としよう(オレの観測では、半分ならいいほうだと思う)。
とすれば、何か10してあげたら、相手は5しか気づかないということだ。
また多くの人は、何かしてもらったら、何かお返しをしよう、と思うだろう。仮に、この相手がしてもらったもの・ことに相当する価値をお返しにしようとするタイプだとすれば、「5してもらったのだから、5のお返しをしよう」と思うだろう。
自分も半分しか気づかないのだから、相手からは2.5の「お返し」をしてもらった、と思うことになる。あるいは仮に相手が「倍返し」の習慣の人であったとしても、してあげた10のうち、半分の5しか返ってこない。
「倍返し」という心がけの良い人が相手であったとしても半分しか返ってこないのだから、「10してあげたのに、たった2.5しか返ってこなかった!」という状況は、実は当たり前のことなのである。そして、「半分ぐらいは気づく」のがいいほうであるとするなら、2.5も見返りがあれば御の字である。だから、そんなことで怒るほうがおかしいわけだ。