「かしこい」と「ものしり」

親しい人、あるいは「近い」人には、それこそ大昔から言ってることなのだが、「かしこい」ということと「ものしり」とは全く違うことなのである。

おそらく一般的な標準からすれば豆知識コレクター度(?)の高めなオレは、ありがたいことに「ものしり」だと言って頂けることがある。大変嬉しい。豆知識コレクターにとって「ものしり」とは最高級の賛辞である。
だが、もっと多くの場合、「かしこいんですね」と言われてしまう。これには強烈な違和感があるのだ。「かしこい」とは、こういうのを指す用語ではないと思うのだ。少なくともオレなんかに使うことばではない。謙遜で言ってるのではないことが、以下を読めば分かっていただけるだろう。
ちなみにそう思う理由を先に書くと、ありがたいことに、小さいころから「かしこい」人々が必ず周囲に居たので、本当の「かしこさ」を目の当たりにする経験に多く恵まれてきたからだ。特に今なんか学者の世界にいるから、それはそれはもうとんでもなくかしこい頭脳が、犬も歩けばかしこい人に当たるぐらいゴロゴロしていることであるよ。

では、本当に「かしこい」とはどういうことなのか?上手く伝えられるか自信はないのだが、コンピュータに喩えればわかりやすいかもしれない。
「ものしり」である、というのは、「内蔵型ハードディスクに詰まったデータの量が多い状態」である。ハードディスクの容量が仮に大きくても、中にデータが入っていなければ意味が無い。
それに対して「かしこい」とは、コンピュータの処理能力の速さ、クロック数である。「頭の回転の速さ」である。
だから、例えば、「ものしり」でないのに「かしこい」人々はたくさん居る。中でもそれに自覚的である人は、自分の「ものしりでないこと」を補うために、「外付けハードディスク」を活用している。自分は覚えていないけど、ここを見ればわかる、とか誰に聞けば分かる、とかいうことは把握しているのだ。

「かしこさ」はどこに現れるかというと、一番わかりやすいのは、判断の速度とその過程である。何か問われたときに、「えーとね、‥‥」と答えを模索するそのときの、その目を見ればわかる。脳がうなりを上げて回転している。その回転速度こそ、「かしこさ」の証である。

脳回転の良さは、「判断」以外にも、例えば、「想像力」にも現れる。単に妄想する能力ではない。「このまま行ったら、どうなるか」という、予測能力である(その意味で、他人の迷惑を考える能力も「かしこさ」の一つであろう)。そして、「かしこい」人は、その予測が多段階であるところがミソである。普通の脳で予測する事態の、もう1歩先を想像するのであり、ではそうだとしてその1歩の先は?と思考あるいは想像を途切れずに続けることができるのである。何か相談事を持ちかけたときに、何もまだしてもいないし起こってもいないのに、まるで予言能力があるかのように最後までストーリーを見通した上でアドバイスをくれる人が居るが、そういう人のことである。「ものしり」がこれをやろうとしても、「見通す」ことができず勝手な妄想に終わったり、単にごく初期段階での選択肢を並べ立てて可能性の話に止まってしまい話が進まなかったりする。

単に「ものしり」なだけでは、そういった「回転」が遅いのであるが、ぼーっと見ていると、「かしこい」のと大差なく見えることがある。これは、ものごとの判断をするときの資料が「ものしり」なだけに豊富なので、判断力あるいは想像力の不足分を「脳内資料」の参照によってカバーできることがあるからだ。しかし、事故であれ創造の現場であれ、本当の意味で「初めての事態」に直面したとき、資料に頼るしかない「ものしり」は無力なのである。

オレの判断の遅さ、予測能力の低さ(特に空気の読めなさ加減)は、そしてアドリブの弱さは、親しい人ならばよくご存知のはずだ。だから決してオレみたいなのに「かしこい」とは言わないように。だがせめて快く「ものしり」と言ってもらえるように、少しずつ勉強していこうと思う。