マスコミがマスゴミと呼ばれる本当の理由

明らかに「流行」を勝手に一から作っていること。とか、特にテレビではバラエティと称して明らかに知能の低さを自慢する番組を垂れ流している。とか、そもそも「バラエティ」とされる番組に限ってバラエティに乏しい内容のものばかりである、とか。
テレビや雑誌などのこういった内容面のゴミっぷりに対してマスゴミという呼び名が与えられた、ということは、確かにあるだろうとは思う。しかし、この「マスゴミ」ということばに込められた、ネット上に漂う「気分」のようなものは、むしろ次のようなことに対する「無力感」、に近いように思う。それは、

「報道機関」とやらが、ジャーナリズムと称して情報操作・扇動を行っていること

既に「行政」「司法」「立法」に次ぐ事実上の「第4の権力」になっているのは明らかであるし、実際に「ジャーナリズムとは権力の監視を行うためにある」と言ってはばからない輩もいる(この主張はすなわちジャーナリズムとやらが上記3つの公権力と同格であることを意味している)。公然たる権力であるからには、他の権力からの監視・規制があって然るべきなのである(あとの3つはそのための三権分立なのだ)。にもかかわらず、大本営発表の如く「言論・表現の自由」とやらを振りかざし、自らの権力を特権扱いし続ける、その無自覚さ加減がマスゴミマスゴミたるゆえんなのである。

マス・メディア(と呼ばれるいわゆるマス4媒体=テレビ・ラジオ・新聞・雑誌)は、既に単なるメディアではない。このことの重大さを考えれば、マスでないメディアにおける言論・表現の自由と、マス・メディアにおけるそれとは全く異質のものであることは明白であろう。
少なくとも現状では、ジャーナリズムとは権力の監視機関たることを目標とし、自らの言論・表現の自由を確保し、自らの見解・意思を公に広めるためにメディアを用いる諸般の所業なのである。そして最も重要なことは、事実上、一般人にはその権利はないのである。
インターネットによって「表現の自由」がみんなにいきわたった。このことにより、逆にマス・メディアがこれまで主張していた「表現の自由」の意味が問い直されている。確かにインターネットにより、各人が、言論を含めて自己を自由に表現することはできるようになった。しかし、あくまでも勝手に表現してるだけであって、「表現を見てもらう権利」あるいは「公に表現してみせる自由」ではない。マス・メディア版の「表現の自由」とは、マス・メディア人の行いたい表現を公に告示する自由なのだ。その自由を手にする権利は、我々にはない。だから、マス・メディアは、我々の基本的人権としての「表現の自由」を担保するものではないし、そんな気はさらさらなく、自説を大衆に押し付けることのできる巨大権力な機関なのである。
例えば、我々のような研究者が、その専門に関する案件について取材を受けて出すコメントですら、数時間にわたる取材を受け懇切丁寧にさまざまな解説をした挙句、記事になればたった2〜3行しか使ってもらえないのである。しかも、記者の書きたい文脈に都合の良い部分だけを抽出されて、である。専門家ですらこの状態なのだから、一般市民など、ジャーナリズムが相手にしていないことは明白だ‥‥いや、相手にしないだけならまだいい。マスメディア・ジャーナリストは一般市民など自説を裏付けるためのアンケート要員(もちろん恣意的な結果をひねり出すためのアンケートである)に使うことしか考えていない。
そしてマス・メディアの影響(というより洗脳)が本当に深刻なのは、大衆を、こんなことすら考えたこともない思考停止状態にしてしまっていることなのだ。ネット住民は、あまりテレビを見ない(理由は「流行についていけないから」的な悲しいものである場合も多いのだがそれはともかく)からこそ、その思考停止への洗脳行為から逃れ続けることができたのだ。少なくとも(コンピュータ抜きの)メディア・リテラシー‥‥マスメディア・リテラシーと言うほうがいいかもしれない‥‥の面については、「ネットやってる人ってキモイ」などと人も見ずに言うバカどもよりは、圧倒的にネットユーザのほうが格上なのである。
以上、マスコミという単語が(広義の)ジャーナリズムを意味しているという現状を踏まえて述べてきた。しかし、ジャーナリズムは本来の出所そのものは高尚で純粋な動機に起因するものであることは疑いのないことではある。そう思えば、現状のマスゴミを云々するためには、マス・ジャーナリズムあるいはマスメディア・ジャーナリズムという術語を用意するべきなのかもしれない。