年寄りの矜持

電車のドアが開いた瞬間に我先に人を押しのけて空席めがけて突進するお年寄りを見ると、そんなに達者ならお疲れサラリーマンに席を譲れよ、と思う。

それから、電車に限らず歩いてるときでも道を(あるいは歩く「コース」を)「譲るのが当然」とでも言わんばかりの態度の御老人。

年寄りの矜持って何だろうね。

ずっと昔から言ってることなのだが、「年寄りを敬うべきだ」というのは全くおかしな話なのである。
年寄りを敬わなくて良いという意味ではない。敬いたければ敬えばよい。敬うべき御年寄りが数多くいらっしゃることも重々承知している。おかしいのは、「敬うべき」というところだ。

尊敬の念というのは、自然に発生するものであって、外部から強制されるものではないのである。
確かに心のアンテナが低く、敬うに値する人々なのにそれを感じ取らない(感じ取れない)のは問題かもしれない。
しかし、それを含めて、尊敬に値するかどうかを判断するのはこちら側であって、標語だったりましてや御年寄り側が主張したりするようなことではない。
電車の座席の例で言えば、「その場に居る人物の中で、誰が最もその座席を必要としているか?」という基準で判断されるのが本来の「椅子の用途」なのであって、年齢のみを判定基準にするのはまさに理不尽(=「道理が尽くされていない」)のである。
御年寄りに限らず、尊敬に値するような人物は、年齢・性別・出身地etc.に関係なく、自然と尊敬したくなる何かを持っているものだ。少なくとも周囲を不快にさせる立ち居振る舞いはしないものだ。

「一日の長」は確かにあるだろう。しかし、n日分の「長」を感じさせない「短」があるなら何にもならない。給料にはあってもいいかもしれないが、人間性の評価に年功序列は不要だ。

人間、歳をとるにつれて自慢話が多くなるという。失敗談すら「そこからどうした」を用いて自慢話に変えてしまえるし。まだまだ年寄りとは言われないけれど、嫌われる年寄りへの道を驀進しまくってる気がする。反省反省。