Wikipediaついに書籍化、その意味のオレ流解釈

先々週だったか、ゼミの担当者会議の席上で、こんな内容の発言があった。

新聞のウェブサイトの記事を適当にとってきて発表する輩もいるから、そういうのを少しずつ直させないとね

このゼミは、大学に入りたての1回生に「大学生としての基本スキル」を身に付けさせるための必修ゼミで、その中のテーマに「新聞を読もう(そうやって世の中を知ろう)」というのがあるのだ。
で、上の発言に対し、スタッフ全体のふいんき(←なぜか変換できない)が「ハハハ、そうだよね」的に和やかに流れて行ったのが少なからずオレにとってはショックであった。まだまだウェブ上の記事に対する信用は無いのだなぁと。
Wikipedia は文献として引用することが可能か」というのはよくある議論の対象になるネタだが、オレとしては、単なる「引用元」ではなく「文献」として何かを紹介する意義は再現性にあると思うので、某かの学説の是非について決定的な文献としての引用は不可、というのが現時点での意見である。逆に単なる参考事例や一般的に知られていることの例など、議論の整合性に関して本質的でない場合にはどんどん引用して構わないと思う。明確な線引きはできないし、線引きしようとするほうが旧時代的というか、既にそれは本質的でないと思う。

そんなことであれこれ思考の迷路に片足つっこんだような状態で日々過ごしていたのだが、先日、こんなニュースが流れた。

ウィキペディア、ドイツで書籍化されて出版へ
(Technobarn 2008年4月23日記事より)

ランダムハウスかぁ。超有名どころ、オーソリティじゃないか。
このニュース、あちこちのブログで取り上げられているが、評価は真っ二つに分かれているようだ。
ちなみにオレは、Wikipediaは、何と言うか「新しい形」だと思っているので、Wikipedia自体へは思いっきり賛同している‥‥というのはさっきも書いた。
Wikipedia賛同派というか、Wikipediaの「位置付け」や「本質的な良さ」を理解している人々であるほど「書籍化は無意味」と断じているのだが、オレはむしろWikipediaのほぼ唯一の弱点をようやくカバーできるという意味で、この書籍化は大賛成である。もちろんWikipedia大賛同派であるからして、書籍化されたもの自体を使ったり読んだりする気は毛頭ない。紙媒体には不可能なハイパーリンクというシステムがWikipediaの利便性の本質の一翼を担っているのは言うまでも無い。
しかし、そんなWikipediaの本質的な良さ、ポテンシャルを思えば思うほど、これに「他人に対する説得力がない」という弱点、即ち「再現性がない」というただそれだけのつまらないことを理由にWikipediaの価値自体を認めない人々の存在が気にならないだろうか?「わかんないヤツはわかんなくていいよ」ではそこらへんの売れないミュージシャンと本質的に同じだ。文化として根付くためには、わかんないヤツも巻き込めないとダメなのだ。
今回のように、一度書籍化された経験があれば、何らかの方法でそこへたどれるという(これ自体は根拠の無い)事実が、Wikipediaのこの弱点の(全てではないが)かなりの部分をカバーするように思えるのだ。いつまでも実体の無い「ふ‥‥残像だ」状態では、肝心なときに役に立たないのである。そんな本誰も見ずにどこかの図書館の書庫で眠り続けていたって構わないが、どこかで一度実体を持ったという事実そのものが、自分ではなく他人に対する説得力という点で重要なのだ。

余談だが、そういう意味では、Wikipediaは、電磁波/光や電子のようなものかもしれない。量子力学観測問題(の説明)のことだ。「電子はそこにもここにも確率的に存在するのですが、つかまえた瞬間に位置が確定してしまうのです」という説明と「つかまえた瞬間に過去のものになってしまう百科事典」という説明は近いものがあるような気がするが、まぁそれはどうでもいい。

とにかく、新しいものを、あるがままに受け入れる能力の問題である。古風でアタマの固い、たとえ話でしか理解できないオレが言うと「お前が言うな」と言われそうだが(笑)。