コンテンツ制作と視点/声というメディア

以下、MORI LOG ACADEMY 2008年3月9日の記事から引用。前半はコンテンツ制作とメディアリテラシー、後半はコンテンツそのものと声というメディアについて、と思って記録。

 小説を書いていて、あるいは読んでいて、頻繁に「あれ?」と思うのが視点である。どこから見ているのか、というカメラの位置だ。漫画ではこれがわかりやすい。コマごとに視点が変化するが、たとえば、AとBの2人が話をしているときに、Aが話す場面は、BからAを見た構図なのか、それともAの後ろからBを捉えた構図なのか、でだいぶ違ってくる。映画やアニメでも同じ。
 漫画の場合は、話している人間をコマに入れないとわかりづらい。音声が使える映画やアニメは、話している人物を画面に入れなくても良い。つまり、Aが話しているとき、それを聞いているBをずっとカメラで捉えることができる。
 このように、ドラマや小説で視点を意識してしまう人は、それを作る側に回ってもやっていけるかもしれない。
 ちなみに、映画を作りたかったら、小説を書きたかったら、映画を見るよりもドキュメンタリィ映像を、小説を読むよりもエッセィなどを、すなわち映画や小説以外のものに多く接した方が、視点や転換の技法を学ぶという意味では勉強になるのではないか、と僕は思う。その理由は、僕がそういったもので学んだからだ。

 ところで、TVドラマ(あるいは吹き替えした洋画)は、映画に比べると台詞が聴き取りやすい。お芝居に近い明瞭な発声だ。アニメも、TVのアニメはお芝居に近いしゃべり方をする。わかりやすく、また感情が籠もっている(ように聞こえる)。しかし、そうとうオーバなのだ(特に、「はっ」というようなリアクション)。映画になると、話し方がより自然になる。抑揚がない、相手だけに聞こえる音量の普通の話し方になる。聞き取りにくいけれど、格段にリアリティがあって、僕はこちらが好みだ。聞き取れなくても、字幕を出してくれれば良いとさえ思う。一般に、第三者が話している言葉って、かなり聞き取りにくいものだ。洋画の吹き替えやTVアニメのしゃべり方は、お芝居を見ているみたいで、伝統芸能としては認められるけれど、僕にはリアリティが感じられず、感情移入の障害になることもある。