ゆうきともレクチャー@Card Shark (1)

昨日、ゆうきとも師のレクチャーに参加することが出来た。分量が多くなるので数回に分けて連載にする。今回は、レクチャー参加前のことと、全体的なこと。
とにかく「充実した時間」「密度の高い時間」であった。惜しむらくは、びびり性のオレはただでさえ「会いたかった著名人」を前にすると緊張してうまく話せないのに「あー、(その話は)ブログに書いてた人でしょ?読んでますよ」と本人に面と向かって言われてもう亜wせdrftgyふじこlp;@って自分でも何言ってんだか状態だったことであった。頼むからそんなに舞い上がるなよオレ。
どうでもいいが、ずっと長い間、(本業でも何でも)オレは舌先三寸でやってきたという変な自信、オレのトークってひょっとしてそれなりにできてるんじゃね?っていう自信が少なからずあったのだが、1年ぐらい前からそれっていわゆる過信じゃね?オレの喋りいけてねんじゃね?と自信崩壊中であるが、やっぱりそうなんだなと思った。
話を戻す。
ひょっとすると気を悪くされる可能性もあるかもしれないのだが、誤解を恐れず書いてみると、オレの中では、どうしても関西人の血が、そっくりそのままでのゆうきとも風の演技を模倣しようとすることを妨げるところがあるように感じられるので、演技そのものを鵜呑み状態で取り込むわけにはいかない(というか取り込めない)ように思われる。んがしかし、じゃあどうしたらよいのか?ということに関する重大な指針が、ゆうき師の演技およびその成立背景に隠されているだろうことは疑いない。ゆうき師の演技動画や解説文などに触れる際にはそう思っていた。
ここで、以前カズ・カタヤマ師の京都でのレクチャーに参加した際に思ったことを記しておきたい。レクチャーにおいて、手順そのものの説明というか紹介は、別にその気になればレクチャーノートだとかDVDだとか作品集だとか、あるいは演技動画を「解析」することで覚えることが出来るだろうから、少なくともオレからすれば、作品を教えてもらうことにはあまり興味が無い。今まで注目してなかった作品を紹介してもらって価値を再認識することはとてもありがたいことではあるが。では何を目当てに参加するのかというと、その背景になっている考え方なのだ。細かい技法の説明にせよ作品の解説にせよ、その技法あるいは改案・アイデアが、なぜそのようにするのか、他の方法論・使用小道具ではなぜダメなのか、などといった考え方が聞きたいのだ。どうせ細かいことは覚えていない。にんげんだもの
今回も、そのつもりで参加したのだった。


※細かいところはDVDなどの残る媒体で語りまくって頂きたいなぁと思う。mMLなんか、収録作品1つ減らせばもっと突っ込んだ話ができるだろうに、と思ってしまう。冊子もDVD本体との差別化がなされてないし。
その意味で、レクチャー内容にせよ、前後のフリートークにせよ、終了後の「ゼミ」にせよ、さすが「理論派」ゆうき師である。かゆいところに手が届く、期待通りであった!
それにしても、やっぱり一所懸命に考えたり試行錯誤したりした経験があってからのレクチャーは、受け止められる情報の量が段違いに増えるなぁ、と思った。そんなことは音楽で何度も経験したことだったはずなのにね。それが成長というものだよ、というやつか。ともかく、数年前にゆうきレクチャーに参加した際の記憶を頼りにあれこれくよくよごにょごにょと考えていたことの、一つの総決算な位置づけに、結果的にも事前思惑的にも、なった。
おそらく、論点ないし議題をはっきりしないままでの質問や「話しかけ」では、ゆうき師から十分な情報を引き出せないだろう(というより、師としても何を言ったらいいのかわからなくて困るだろう)、と予想し、数日前からあらかじめいくつかの論点・質問をピックアップしておいたのが役に立った。
あと「世界の真田師」を生で拝見できたのは大変意義深かった(めっちゃ普通のオモロイおっちゃんやったwww)のだが、いかんせん、今回はフォーカスが異なっていたので、大変残念ながら「次回にチャレンジ!」と思うことにする。
脱線ついでに思ったことだが、あのゆうき師のオーラは何だ。落ち着いてるというのかなんというのか、喩えるなら「本当に強い人はケンカしない」とか言うときの「強い人」の「ゆるぎない感じ」のようなもの、と言えば伝わるだろうか。長年のホップで培われた「何か」なのだろうか。確かゆうき師は1969年生まれ、つまりオレの6つ年上‥‥ゆうき師と同い年のはずの高校の先輩が何人か思い浮かぶが、あんな落ち着いた人いないぞ。4月から大学の教壇に立とうかというオレからすれば5万光年ぐらい遠い境地である。学生になめられては困るんで、あんなオーラほしーなー。どっかに落ちてないかな。

次回のエントリから、レクチャー内容について現時点で考えたこと感じたことを、書き残しておこうと思う。