『セルフワーキング・トリック』のあれこれ

はい。http://d.hatena.ne.jp/dr-koji/20050602#p2さんからネタをパクってます(自爆)。

ま、良い話題だと思ったので私もひとこと、ということでここは一つよしなに。

で、セルフワーキング。字面そのものから言えば、定義としては、

演者ではなくて、そのルーティーンそのものがトリックを演ずるパフォーマーの役割をしている

ということになるのかな。なぜなら、普通の『非セルフワーキング』の場合、workしてるのは演者だから。これは "work" という単語を『仕事をする』以外に『効果がある』という意味に拡張しても同じ結論になる。ただ、上の定義だと言葉が変なんだけど(笑)

あ、ここで言う『トリック』とは、いわゆる『タネ』のことを指す。『マジック』じゃなくて『トリック』、という区別はたかむらしのぶさんの『虚構の理』を参照。

もう少し突っ込んで考えてみると、演者がトリックを主体的に行っているのではなく、ルーティーンそのもの、表面に見えている手続きそのものにトリックがあるもの、ということになるだろうか。もっと言えば、トリックが演者の手中になく、手続きそのものの中にある、ということになるか。

だから、もっと端的な、オレ流の定義はこうだ。

原理に全面的に寄りかかったネタ

そうは言っても、特に電卓系数理トリックなんかは顕著だが、ここまでなら(これだけだったら)あくまでも『トリック』であって、『マジック』ではないのである。もっと直感的に言えば『不思議じゃない』のである。『ふーん、そんな法則があるんだ。へぇ』ってなってしまうのだ。そして、セルフワーキングのほうが、そうでない『普通のネタ』よりも、この『現象をマジックとして成立させる』ことにより大きな困難を伴うのだ(その点、ナポレオンズ師は、上手いと思う)。

しかし、そういう『原理』の存在というか気配を消すことができれば、とても不思議な現象を起こすことも可能である。秘技を惜しみなく連発するルーティーンよりもウケることもよくある。事実、私の一番ウケる演目は、セルフワーキング事典に載っている『ごちゃまぜ予言』だ。*1

そうやって『マジック』として仕立てるためには、言葉による誘導や、場合によっては元来不要だったシークレットムーブを投入することもある。本末転倒、と言われるかも知れないけど(笑)。

そう考えてくると、『セルフワーキング・トリック』は存在するが『セルフワーキング・マジック』というのは存在しないことになる。あの事典、改題するべきだと思うんだけどどうだろう。

‥‥いや、持ってないんだけどさ(自爆)

*1:以前にも話の流れで紹介した、『Now I see it, then you find it!』のこと。ふじいあきら師の手順をベースに、『予言』そのものの出現を手順に内包させてあるという、A. Bongo師が有名にしたアレの、マイ・バリエーション。

本当に問題な日本語

非常勤講師をしている講座で、学生に課していたレポートが集まった。読んでみた。

昨今、『問題な日本語』が取り沙汰されることが多い。かく言う私もかなり変な日本語を操りここに記し続けているのだが、その昨今の流れでは、問題とされるポイントは大抵の場合、『単語そのもの』『単語の誤用』『慣用句の誤用』『変な敬語』に焦点が当てられているように思う。

しかるにこの学生達のレポートを見られよ。

日本の最高学府の一つとも呼ばれるこの大学。いわば最高難度の入学試験を突破して来た連中の書く日本語のひどさといったら、もう涙なしには読めない。上に挙げたような『よく挙げられるポイント』など、全く些末事である。文章そのものの構成力が欠如しているのだ。『語』が変なのではなく、『文』がおかしい、あるいはもっと言えば『文章』の背後にあるはずの『論理』がムチャクチャなのだ。いや『論理』どころか『文章の筋(すじ)』が無いのだ。仮にも理系科目のレポートであるのに、論理的な文章になっていない。もちろん『です/ます』と『だ/である』がメチャメチャだったりするのだが、そういう問題ではないのである。まるで小学生の文集を読んでいるかのようだ。これが日本の最高学府にやってきた間もなく成人になろうかという連中の書く日本語なのか。信じられない。

津坂匡章の行方

必殺シリーズ初期4作*1名脇役として登場していた『おひろめの半次(暗闇仕留人)』こと津坂匡章

なぜ彼はシリーズ途中で居なくなってしまうのか。

現在京都で放映されているのは『暗闇仕留人』(毎週水曜日午後1時から)。既に『おひろめの半次』は居ない。

誰か理由を教えて。

*1:『仕事人シリーズではない。注意されたい。』