自分のことに触れられた研究書や一般論は、なぜ「違う」と感じるのか

若者論、おっさん論のような世代間論争だけでなく、ジェンダー論や、あるいは職業論(アーティスト論や大学論など)、最近だとインターネットユーザー論なども含めて、読むと、それがデータを集めて実証していてもなお、「これは違う」「こいつホントのこと知らねーなー」と感じてしまう理由は何だろうか?

僕が思うに、理由はおおまかに2つあって…

とりあえず、自分を外から云々されたら癪に障る、というのがまずある。また、同じ属性を持っているからというだけの理由で、そのグループに勝手に入れられたくない、あんな連中と同一視されたくない、という反発もあろう。まぁ、どちらも感情的なものだ。これは抗い難く、大きい。が、おそらくその感情を押さえ込んだとしても、それでもなお残る違和感があるだろう。

おそらくそれは、そういった「論」というものが、データに依拠して論を展開するにしてもそうでなくても、「論」として成立するためには、「モデル」が必要だから、であろう。つまり、具体的な、属人的な条件を削ぎ落として、本質的な条件だけを抽出して議論しなくては「論」になりにくい、ということだろう。具体例を云々するだけでは「分析」で終わってしまい、それは「論」になる前の「報告」に相当する。

そして、具体性を捨てて抽象化するということは、それは「個人」を見ないことでもある。「平均的な人」は存在しない、というのと同じ話だ。だから、そういう論を見ると必ず「私(の周囲の人々)は違う」と思ってしまう。しかし残念なことに、世間は必ず自分の視野よりもずっと広い。我々が「みんな」という言葉を使う時、まず間違いなく、良くて自分の知り合い数人のことしか指していないし、多くは自分のことしか言っていない(…というこの言説も全く同じ論理により、あやしいものであるが)

具体性を落とした「モデル」と、「この他でもない私」が違うのは当たり前で、しかも(僕を含めて)誰もが例外無く「私の周囲の人々」の狭い世界を「みんな」と誤認してしまう(←世界をわかった気になるだけなら簡単だが)ために、「この論は間違っている」と思ってしまうのだろう。

まぁ、言うなれば、この例も「自らを相対化するのは難しい」ということを示しているのだろう。