わかりたいあなたのための現代思想・入門(小阪修平ほか)

わかりたいあなたのための現代思想・入門―サルトルからデリダ、ドゥルーズまで、知の最前線の完全見取図! (別冊宝島 (44))

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いやぁ、この本は、ホントに苦労した‥‥

タイトルの通り、現代思想の入門的な解説集を謳った、いわゆるムックである。なお、僕が読んだのはこの「別冊宝島」版なのだが、別の出版社から、こんなのとかこんなのとかいう形で、ちゃんとした(?)本として出版されているようだ。

なんでこんな本に挑んだのかというと、いくつか理由がある。あんな先生やあんな先生と渡り合うためのトレーニング、というのもある(笑)が、最大の理由は、観光(学)の研究してます、と言うためにはジョン・アーリ『観光のまなざし』くらいは読んでいなければならないからである。しかし、『まなざし』を読むためには、ミシェル・フーコーを知らねばならないらしく、さらに、そのフーコーを知るためにはニーチェを知らねばならないと聞いた。だから、『ニーチェ入門』を読み、その上で、本書を読んだのだ。これで、『まなざし』を読む準備が整った…と思いたい。

本書の構成は次のようなものだ。

Part 2-5ではそれぞれの本論(上記の目次でインデントして書いたのがその本論のタイトル)だけでなく、用語の解説のコーナーもある(「用語」として重要人物も紹介されている)。また、Part 2、4、5では中心人物とその思想についての各論がある。その各論でとりあげられている人物をリストアップしてみよう。もちろん、そのバックグラウンドとしてプラトンとか、ニーチェとか、マルクスとかを、少しぐらいは知っていなければならないのは当然である(詳しいことというか、必要なことは解説してあるけれど、何にも知らないのでは、キツい)

冒頭に苦労したと書いたが、何が苦労したって、分量である。本の外見を一見したところでは、まぁ、新刊書コーナーに並んでいそうなごく一般的な本とそう大差ないように見えるのだが、フォントサイズが小さく、多段組になっているので、ものすごい量なのである。そして、書いてある内容が難解なので、読み飛ばすことができない。そして何より抜群の催眠効果がある(笑)。ただし、難解とは言え「入門」なので、執筆者によって差はあるものの、基本的には、丁寧に読めば理解できる。特に、以前に紹介した『ニーチェ入門』の著者である竹田青嗣の解説がわかりやすい(逆に、ドゥルーズの解説は何言ってるのかさっぱりわからなかったが…)。また、通読してからPart 1を再読するとよりよく理解できる。

さて、本書を読むに至った「動機」については本稿冒頭で述べたが、実はそれだけではこんな苦労をしたくはない。本書でなくてもいいのだが、現代思想を勉強「しなければいけない」必要性があったのだ。つまり、以前に「ドストエフスキーとファラデーは何が違うのか」について小論を書いたが、上に挙げた人たち(と、その思想)は、ドストエフスキーと違って、僕たち人文・社会系学部を職場とする人間(僕自身は理学地方出身だが、職場は人文・社会系だ)は、どうやら、知っていなければならないっぽいのである。人文・社会系の本を読んできてだんだんわかってきたのだが、どうも、現代思想と呼ばれているものが、いわゆる人文・社会系の学問の「やりかた」を決めているようなのである。以前に紹介した『歴史学ってなんだ?』では、構造主義の登場が歴史学のありかたあるいはやりかたを根本的に変えた話が紹介されていた。『まなざし』理解に必要とされたフーコーも「構造主義を最も体現している人物」なのだそうだ。

そんなこんなで、頑張って、読み切った。いろいろ思うこともあったし、いろいろな発見もあった。

我々にとって重要なのは、結果的には構造主義なんだけども、そのキモになるのは、やっぱ記号論だよな、と思った。『知の技法』にも、あった。記号論は言語を対象にした話なんだけども、僕たちが「ことば」をどう使っているか、ということは、そのまま、僕たちがものごとをどう見ているかという認識論そのものであるらしいのである。だから、「世の中をどう切り取ったら何を言えるか」が人文・社会系の学問的研究であるならば、ここは通らざるを得ないのである。そして、その言語に対する記号論を、もっと対象を広げ一般化したような「やりかた」が構造主義なので、やっぱ記号論なのである。

本書の構造主義の解説まで到達して、やっと、学部1年の時(もう、20年前なのか!そりゃ白髪も増えるはずだよ‥‥)一般教養科目精神病理学入門」(だったかな)の教科書『夢と構造』(新宮一成)が、構造主義の手法での夢分析の話をしていたことがわかった。だから教科書のタイトルが、『夢と構造』だったのか! その講義の中ではフロイト夢分析の話がメインだったのでわかりやすかったのだけど(当時は夢分析とか心理学とかがTVで大流行していた時期だったし、そもそもその流行以前から僕自身が大いに興味があったこともあって、なんと、あろうことか、驚くべきことに、この僕がこの講義は全部出席していたのだ!)、授業本編と違ってこの教科書はラカンの話だったので、夢の中のシニフィアンシニフィエが云々、って書いてあって、もうちんぷんかんぷんだったことが思い出される。でも、今なら、読める気がする。

さらに、同じく一般教養科目「哲学」(ひょっとすると「哲学入門」だったかもしれない)‥‥これは「楽勝科目」だとの噂を聞きつけて履修登録をして教科書だけ買って全く出席せずそのまま単位を取れずじまいに終わった‥‥の教科書が、フッサールの現象学についての本だった。これも、今なら、読める気が‥‥いや、これはしないなぁ(^^;

あとは、‥‥うーん、‥‥やっぱり、何だろう、こう、「ああ、これが『知』なんだなぁ」、とは思えるんだけど、あるいは「知」のレベルアップをしたような気にはなるんだけど、こう、うーん、‥‥「わくわくしない」んだよなぁ。ひょっとすると、だから僕は「理系」なのかなぁ。わかんないや。

ところで、サブタイトルに、知の「最前線」という言葉が使われているが、実は、本書の初版は1984.12.25である。今からざっと30年前!…ということは、「現代」思想は、今はさらにその先を行っている、ということだ。ある先生に聞いた話では、昔から人文・社会系の人達は「科学」から意識的に距離を置いていたけれど、最近はそうもいかなくなってきたので、科学的な何かを取り入れ?融合?したような議論がなされているんだとか。どうやらラトゥールという人が頑張っているらしく、本も買ったので、いずれ挑まなくてはいけない。いや、その前に『まなざし』だけども。

勝手に「その先」を占ってみよう。もし「科学」な立場やものの見方が入ってくるのであれば、今までに先人たちが血の涙を流して積み上げてきたものを「乗り越える」と称していたずらに論理を弄んできたことへの反省が現れてくるのではないかと。具体的には、現在「異文化交流」とか「異文化理解」とか言われるような行いの意味を「どんなに言葉を尽くしても分かり合えないということを理解するための行いである」と言う人をTwitterで見たことがあるが、まさにそれで、例えばハイデガーであれフッサールであれサルトルであれマルクスであれフーコーであれデリダであれ、自分より前に何か言ってた人を「乗り越える」と称して否定することから始めていたということに対して反省して、単純に言うと「そういう人もいる」というふうに理解していくような、ある意味ではヘーゲルの「あれもこれも」のようなスタイルかもしれないけれども、「他者の否定」ということへの批判がこれからの流れになって、…くれればいいなぁと僕は願っている。これはもちろん、予想というより、僕の希望なのだけれど。