黙る力

僕は他人の話が聞けない。

僕は、担当講義の中で、「プレゼンを上手くなるためには、まず他人の話を聞くことから始めなさい」としつこく説いている。

銀行強盗が

「オレの言うことを聞け!さもなくば人質の命はないぞ!」
と言うときの「聞く」は「言う通りに従う」という意味だけども、その意味での「聞く」の前に、「話を耳から脳に入れる」という意味での「聞く」についての話。まずは「傾聴」し「受容」すること。

確かに僕は幼いときから、銀行強盗の意味で「聞く」ができなかった。それは間違いないし、恥ずかしく思う。でもそれだけじゃなくて、傾聴するという意味での「聞く」も、まるでできなかった。

ひょっとすると、それが「自分のパフォーマンスを録画/録音して自分でチェックすることに耐えられない」に通じているのかもしれない。まぁ、僕の場合には、それ以前の「見たり聞いたりし直さなくとも自分で山ほど反省点に気付いている」という思いがあるけれど。

余談だが、何か他のことに集中していて「聴こえていなかった」という人がいる。僕はこれはただの言い訳だと考えている。聴覚には無意識的な選択能力がある。例えば屋外で誰かと話している時、全く何も問題なくクリアな会話をしているつもりでも、それを録音してみると、ものすごくノイズにあふれていたりする。その中でもクリアに会話できるのは、耳の選択能力のおかげである。ということは、誰かから話しかけられて「あ、ごめん、聞いてなかった」という事案は、耳が積極的に排除していたことに他ならない。元々「聞く価値が無い人」の声だから優先順位が低いのである。ご本人はそんなことないと否定するだろうけど、よく観察していると、優先順位の高い人の声なら確実に反応しているのがわかるだろう。

話が逸れた。

僕自身が、「聞く」ことをできていないのだから、「聞く」ことがプレゼンの基礎であるのならば、あるいはパフォーマンスの基盤であるならば、僕のプレゼン、授業、パフォーマンス、ひょっとしたら与太話でも、おそらく、僕はそこに居る意味が無い。

「お客様の声を真摯に聞かねばならない」「お客様の顔、目を見ればわかる」と、手品業界では言われる。だから、お客様の声を聞こうとするのだけれど、どうしても、「私はちゃ〜んとあなたの話を聞いていますよ〜」とでも言いたげな下卑た笑顔を浮かべている自分がいることに気付く(しかも本番中に)。頬が痙攣せんばかりに引きつっているのが自分でわかるのだ。

特に、自分にとって都合の悪い話を、どう「聞く」のか。僕はまだ、それができない。本当はそういう話にこそ、自分を変えるきっかけやヒントがあるってことは、頭ではわかっている(当たり前だ)けれど、耳から心まで届けることができない。思わず逆巻く心の波が、耳からの情報をかき消してしまう。

自分にとって都合の悪い話というのは、「わかっちゃいるけど…」を白日の下に晒される「お小言」がその代表だと思うが、実際にはお小言だけに限らない。むしろ最近僕がそう感じることの多くは、僕と違う文化と接する時である。その中でも、基準のものさしが逆転している人の話‥‥僕がダメだと考えている何かを良しとしている文化の話。そして、そういう人の方が世間ではマジョリティなのだと思い知らされるような話は、とても、つらい。

本当の異文化交流とは、これを乗り越えることなんだろう、と思う。いつぞやの首相のように、単に「あなたとは違うんです」と言ってしまうのは簡単なことだ。あるいはもう少し高等なテクニックとしては「そういう意見もあるよね」「こういう人にはこう対処したらいいんだね」というような視点で「一般化」あるいは「俯瞰」して片付けようとする手もある。結局、相手の意見を正面から受け止めず、自分を「そんな意見なんかよりも高いレベルの視点」に置くことで逃げているだけなんだけれど、なまじっか「それっぽいまとめ」ができちゃうだけに、この陥穽にはまっていることに自分では気付けないかもしれない。

そうではなく、「聞く」、そして「受け入れる」、その上で今までの自分の文化との融合を図る、……ということなのではなかろうか。

僕が社会に出たことがないということに関連して、ずいぶん昔にある人が「君は『ひと』に会った経験が圧倒的に少な過ぎるよね」と評した(っていう話は何年か前にここに書いたような気もするなぁ)。たぶん、そうなのだろう。ガキなんだろうな(笑)。先に述べた、自分のパフォーマンスについて「聞き直さなくても、演奏中に自分で既にいっぱい欠点に気付いてるから、再生チェックするまでもない」と強弁するのも、おそらく「自分が受け入れることができる欠点しか受け入れない」という態度の現れなのだろう。

それでも聞き、受け入れることができなければ、本当の意味で自分の血肉となるような「あれもこれも」のせめぎ合いの中から新しいものを見つけ出す、あるいは新しい自分を作って行くような「弁証法」はできないのだろう、ということもわかっている。でも、できない。

未熟者だなぁ。

「受け入れる」はなかなかできないけれど、「聞く」だけなら、少しは何とかできそうな気もする。僕は普段、誰かと会話をしていると、会話のキャッチボールをしているつもりが、すぐに相手の話を「奪って」しまう。演説になってしまう。だから、まず、「黙る」ことから始めなくては、と思う。