モモ(ミヒャエル・エンデ)

モモ

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  • ミヒャエル・エンデ (著, イラスト), 大島 かおり (翻訳)
  • 新書: 409ページ
  • 出版社: 岩波書店 (2005/6/16)
  • ISBN-10: 4001141272
  • ISBN-13: 978-4001141276
  • 発売日: 2005/6/16(※原作は1973年。和訳初版は1976.07)
  • おすすめ度:★★★★★

なんでこの小説に子供時代に出会わなかったんだろう。もし出会っていたら今こんなつまんない僕になっていなかったかもしれない。

文明が都市化していく現代社会では、どんどん時間がなくなっていく。1分、1秒を惜しんで働き、ものごとを消費していく。消費すればするほど、やるべきことは増え、時間は無くなっていく。子どもたちも「ほんとうの遊び」をすることができなくなり、「将来の役に立つ遊び」しかさせてもらえない。

この物語の舞台の、ある田舎もそうなっていく。ところがそれは、「時間どろぼう」の灰色の男たちの仕業らしい。灰色の男たちは言葉巧みに人々の心に入り込み、時間を奪って行く。時間を奪われた人々は、自分や周りを顧みる事も無ければ夢を語ることもなく、忙殺……心を亡くして死んだ時間を過ごすようになる。

モモという女の子は人々の話を聞き、つまり自分の時間を相手に与えているんだけども、その話している相手がモモに話しているだけでいつの間にか自分自身を取り戻してしまう、という能力を持っている。いや、そういう能力は本当はみんな持っていたはずなのに、失ってしまっただけなのだろう。とにかくそういう純粋なモモと、「時間どろぼう」灰色の男たちの対決、である。

映画「マトリックス」の、あの黒いスーツと濃いサングラスをかけた集団は、ひょっとしたらこの小説の灰色の男たちをモデルにしているんじゃないかとすら思える。灰色の男たちの不気味さは、本当にいるんじゃないかと思えるほどだ。

それにしても、さすが巨匠エンデ、冒険活劇童話でもあり大人向けの社会派エンターテインメント小説でもある。意味深な表紙や挿し絵もエンデ自身の手によるものらしい。1974年にはドイツ児童文学賞も受賞しているようだ。映画「ネバーエンディング・ストーリー」、観てみようかな。

時間をコントロールすることがどれだけ難しいか、と言う事はみんな知っている。「ジョジョの奇妙な冒険」各部のボスキャラが必ず時間を操る能力を持っていることがそれを象徴している。時間とは我々にとって何なのか。エンデによる解答は、「生きる」ということのようだけれども、僕のこの文を読んでも意味がわからないだろうから、やはり読んで頂くしかないだろう。

ただ、一つ気になることがある。それは、「ほんとうの遊び」などのような、こういう話をするとき、それが人間の本質的なことへの省察や、あるいは今を生きるための「現実的な」ヒントになるならば良いのだが、往々にして、話が単なる「昔はよかったのに」という懐古趣味に終わってしまいがちなことだ。エネルギー問題や、里山問題なんかでもそうなんだけど、本当に全面的に昔に戻れば良いというものではないだろう。江戸時代に戻れなんていうけれども、江戸時代の日本は貧困と飢餓と病気の蝕むスラムだ。それに、「よかったはずの昔」が本当に良いのであれば、「今」はこうなっていないはずだ。「今」は必然性があって「今」になった。「人間的であること」は「昔の暮らし」とはもはや一致しない。昔をヒントにするのは良いとしても、「今」を踏まえた「未来」にフィットした、新しいあり方を模索しなければならないはず。

それはさておき、どうやら僕には時間どろぼうが3人ぐらい取り憑いているようだ(^^; モモが何もしていないのに地域のみんなを癒していたように、「生きた時間」の中で暮らしたいものだ。今はとにかく、ゆっくりじっくり基礎物理と経営学の勉強をしたい…。