効果10倍の“教える”技術―授業から企業研修まで(吉田新一郎)

効果10倍の“教える”技術―授業から企業研修まで (PHP新書)


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  • 著: 吉田 新一郎
  • 新書: 230ページ
  • 出版社: PHP研究所 (2006/02)
  • ISBN-10: 4569648460
  • ISBN-13: 978-4569648460
  • 発売日: 2006/02
  • 価格: ¥ 735
  • オススメ度: ★★☆☆☆


本書は、数年前に紹介されたことがあり、一度手に取って読み始めたのだが、その時は最初のほうを読んだだけで、「あー、またコレか」と思って読む気が失せた。というのも、旧態依然の講義一辺倒の新人研修や学校教育を断罪し、参加型、ワークショップ型で全てが解決するという、まぁ、ありがちな教育論だなと思ったからだ(ちゃんと読んでも実際そうだったんだが)

こういうワークショップ型の授業や研修、あるいは体験型学習を推進しようとする人は、いったい、講義形式をどうすれば充実させられるのか、工夫したことがあるのだろうか?…つまり「まずはちゃんと講義できるようになってからものを言えよ」という気持ちにさせられるのが1つ。もう1つは、何の予備知識もない状態の参加者を集めて「さぁディスカッション(あるいは作業など)してみようか」と手を離しても、何もできないものだからだ。まずは議論の方法であるとか、その前提になる基礎知識であるとか、使われる用語であるとか、そういう最低限の予備知識がなければ、うまく回り出さない。これは基礎演習を何年か担当して学んだことだ。そこの部分を無視して「講義は最低」とだけ連呼する教育論はもううんざりなのだ。

しかし、今、僕は自分の担当科目の講義をしていて、今まで講演や学会発表などの経験の中で作り上げてきた(学問的コンテンツを解説するための)プレゼンテーションの方法が、本当にこの路線でいいのか、わからなくなってしまった。現実に、僕の講義では、(確かに嬉々として聴いてくれている学生もいるのだけれど)寝てる人が多い。こないだなんか、授業中に(そのままでは用語が通用しないので授業用にアレンジして)紹介したある素材の元ネタをネットで探し出してきて「こっちが面白い」と(授業中に)ツイートされたり、リアクションペーパーを書いてもらったら「授業の内容よりスライドのテーマ(基本デザイン)が気になった」とか言われたり、もう散々で、これには本当に参ってしまった。

そして折しも、我が社の教養教育改革の目玉の1つのゼミナールが始まり、僕も担当教員の一人なのだが、これがグループワークとディスカッションという形式をベースにしていて……少なくとも僕の目から見れば大変残念なことに、うまく回っていない。少なくとも新たに参加者に「知」を生み出す方向には進んでいないように見えるのだ。

森ゼミに、そして僕の授業運営に、あるいは僕が取り組むサイエンスカフェに、何か新しい風を吹き込み停滞を打破するヒントは無いものか、藁をもすがる気持ちで、本書をもう一度手に取ったのだった。

…やはり、今ひとつであった。なぜか?

確かに、興味深い指摘はいくつかあった。例えば、ひとはいろんな能力を使って、いろんなチャンネルで学ぶということ。そして人によってどの能力・チャンネルで学ぶのが得意なのか不得意なのかは多様であり、従ってファシリテーターは多様な学びの場を提供できなければならないという主張。あるいは、「学び」とはあくまでも参加者の内部で新たな知が形作られることを目指すものなのだから、参加者が主体なのであって、「講演者」が主体となって(ペラペラと一方的にしゃべっていて)はいけないのだ、という主張。これらは、なるほどと思わせる要素があるし、いろいろと反省させられた。

民俗学に関する書籍で見かけた「実践知」という言葉がある。おそらく、企業の研修などで扱われる類いの「仕事のやり方」は「実践そのもの」が「知」であり、まさにそのような実践知を学ぶには、実践を通じて、身体で、あるいは五感で「感じて」「体験して」こそ身に付くものであろう。「会議の改善」などは、まさしく本書で声高に叫ばれるように「正論を聞かされただけでは行動は変化しない」。

しかし、ゼミのみんながしなければならない発表の中身や、大学の講義で展開される事柄は、実践知というよりも、「体系化された学問」である。果たして、そういうコンテンツは、「ファシリテーターは何もしないに越したことはない」参加者が参加者と共に何か生み出すような作法の中から湧いて来るだろうか?

そもそも、大学の講義は、教室で講師が一方的に解説する90分で完結するものではない、ということになっている。即ち、聴講した後、自宅等々で(同じ時間だけ)自習することが求められているのだ。この「自分で手を動かして調べたり練習したり考えたりする」ことも含めての学習モデルなのである。確かに著者の言う通り、その自習の部分を「参加者に丸投げ」することを問題視することもできる。しかしモデルそのものの中に、参加者の(広義の)体験的学習が含まれていることは、そういう話題を取り扱うのであれば、軽視するべきではないはずだ。だから、講義形式で授業を進めるのであれば、その自習という体験的学習に誘うことを目的の一つに含めながら、プレゼンテーションを考えるべきなのだろう。

話を戻して、本書では、(実践知を学ぶための)グループワークをファシリテートするためのヒントはいろいろと取り扱われている。くだらないと思えるようなゲームでも、確かにアイスブレーカーのお題としては面白いかもしれない。振り返りやブレーンストーミングのためのトリガーになりそうな、場の「形式」(何の枠も設けずに手を離しても議論は始まらない)の素材もいくつか挙げられていて、アレンジして使ってみようかと(今なら)思えるものがある。その意味で、諦めずに通読してみて良かった。

最後に一言。確かに、「旧来のやり方」の問題点を発見し、それに対しての解答としての自説を示す、という話法は、自説をアピールする方法としては強力だし、定番でもある。しかし、問題点を発見ないし整理するだけで十分であって、別に旧来の方法や考えに罵詈雑言を浴びせる必要はない。なぜなら、旧来の「定跡」が成立してきたのは、それ相応の理由があるからであって、それも解答の1つであることには変わりないからだ。本書に限らず、例えば「プレゼンテーションZen」などもそうだが、ビジネス書の中には、こういう「既存のものや考えの徹底排撃」から話を始めようとするものがある。僕はこの類いは眉につばをつけて読むべきだと考えている。なぜなら、たいていこの手のものは、自説の欠点を隠しているからだ。隠すためには自説の美点だけを徹底的に礼賛しなければならない。逆に言えば、そうしなければ自説の欠点に読者の目を向けさせてしまうことになっちゃうのである。自説を引き立たせるために、また欠点があることに気付かせないためにも、既存のものは徹底的に蔑視しなければならないのだ。その意味で、この類いの話法を展開している本に出会ったら、著者がひた隠しにしている「この方法では何ができないのか」を明らかにするつもりで読んだほうが、知のバランスが取れて良い。ほんとうのことは、あいだのどこかにあるものだ。