<子ども>のための哲学(永井均)

<子ども>のための哲学

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  • 著者: 永井均
  • 新書: 216ページ
  • 出版社: 講談社 (1996/5/20)
  • ISBN-10: 4061493019
  • ISBN-13: 978-4061493018
  • 発売日: 1996/5/20
  • おすすめ度:★★★☆☆


眠れない夜、「哲学の本ならすぐ眠れるだろう」と、睡眠導入剤として読み始めたところ、何故か、集中して一気に読んでしまった。

著者によると、哲学は、えらい人が思考の「結果として」辿り着いた既に存在しているものではなく、思考という行為そのものなのだそうである。本書では「哲学する」と表現されている。それと対置して、歴史上「哲学者」と呼ばれてきた人々が思考した結果は「思想」=thought=「考えられてしまったこと」と表現され、哲学するためには思想を学んではいけない、とまで言う。そして、「哲学する」ためには<子ども>でなければならないと言う。

ここで著者の言う<子ども>とは、僕の表現で言えば、普通の感覚で世を過ごす日本人なら「は?ガキはコレだから困る」と煙たがられる疑問を抱く存在、とでもなるだろうか。誰もが一度くらいは同種の「世の中に対する疑い」を持ったことがあり、そのうちほどほどに「こんなもんだ」と思えるようになり、疑念は忘れ去るか「そんな時代もあったな」と無かったことにされるような、そんな存在‥‥僕は「中二病のための哲学」が最もしっくりくるのだがどうか。

悪口はさておき、「哲学する」という表現で著者が言いたいこと、であろうことは、本書を通じて、よく表現されていると思った。この点で、割と僕の中では高評価である。「哲学する」という行為のダイナミックさ、躍動感のようなもの、を感じ取ることができた。「批判的思考」「論理的思考」の名の下に、「〜とは限らない」「〜とは言えない」と否定形の文の応酬しかしない議論は無意味だなとよく思うのだが、そういう「論理のための論理」ではなく、「自分が納得したいのだ」という極めて利己的な欲求に突き動かされた行為こそが、著者の言う「哲学する」ことである、と僕は理解した(その意味で、というかその意味で「も」、僕はディベートというやつが心底キライである。あんな不毛な行為は他にはそうそう見かけることができないとすら思う)

この辺りのことを、よく表しているくだりを見つけたので紹介しよう。


 ものを考え続けるためには、すでに考えられてしまったこと(思想)を、そのつど打ち捨てていかなくてはならない。でも、ひとりでそれをやるのはとてもむずかしい。だから、自分にかわってそれをやってくれるひとだけが、つまり有効な批判をしてくれる人だけが、哲学上の友人(=協力者)なのだ。だから、真の友人を求めるかぎり、批判者を批判し続けなければならない。

 では、批判が有効であることの基準は何か。それは有効な批判が出てきた時点ではじめてわかることだ。(中略)それはいわば、闘争の勝敗を決める基準そのものが、その闘争の中で生み出されるような特殊な闘争なのだ。それでもそれが闘争でないのは、その未知の基準を生み出すために、お互いが協力しあうからである。

 たいていのひとは、議論するということを相手の考えを論破して自分の考えを弁護することだと思っている。政治的議論のようなものなら、もちろんそうだろう。(中略)

 哲学の議論は、思想を持つ者どうしの通常の討論とは逆に、自分では気づかない自説の難点や弱点を相手に指摘してもらうことだけをめざしておこなわれる。(中略)

 だから、哲学の場合、友人と論敵はぴったり一致する。同じ問いを共有し、協力してそれを徹底的に解明し尽くしたいと思う友人としか、そもそも敵対することができないからだ。

僕のような者から見て、「哲学」についてまわる疑問の1つ「哲学って、何がしたいのかわからん」への回答は、これに尽きるんじゃないだろうか。このくだりは、読んでいて、僕はとても納得した。

もう1つのありがちな疑問「哲学が何の役に立つのか」への回答も、著者は面白い意見を提示している。一言で(僕が)まとめると、「マイナスをゼロに戻すため」なんだそうだ。普通に暮らす(プラスマイナスゼロの状態)ことができている普通の人なら何もひっかかりを感じないようなことにひっかかってしまい、思考回路がドツボにはまった状態(マイナスの状態)の人がいるとしよう。そういう人が、普通の人並みの水準に這い上がるために、「ひっかかったことを自分が納得いくまで考える」行為が哲学。だから、哲学することで「プラス」になることは、原理的にあり得ないことになる。これまた自虐的というか何と言うか、なんとも痛快な説明ではある。

ちなみに僕の妻の現役大学生時代の専攻は「教育哲学」と呼ばれる分野だったのだが、当時、この「哲学が何の役に立つねん?」を問うてみたことがある。これは「科学って何の役に立つねん?」という問いの答えを探していて、「それを言うなら哲学はどないやねん?あんなん中2の頃に誰でも考えるようなことやないか」という文脈だった。だが、妻の切り返しに驚いた。曰く、哲学者は「みんなが考えるようなことだからこそ、みんながムダな時間を使わずに済むように、みんなの代わりに考えている」のだから、めちゃめちゃ役に立っているのだそうだ。

話が発散してまとまらないが、本書を読んだ感想としては、全体としては、哲学の「心意気」のようなものは少し分かった。でもやっぱりそれは僕の知的興奮を呼び覚ますことはないだろうな、とも感じた。