福島第一原発事故と原子力発電についての私見

あんまりやる気ではなかったのだが、行きがかり上、Twitter福島第一原発事故に関連する議論をしている。ここらで僕の現時点での考えをまとめておこうと思う。惑星科学者として、放射線についてそれなりに知識を持つはず‥‥一応は第一種放射線取扱主任者なので‥‥の者として、何か発言する責任があるんじゃないかという気もしないわけではない。とは言うものの、残念ながら「安心してもらうための記事」ではない。科学は人の心を救うことは目的とはしていないので。
まず、例えばTwitterのTLや大手各紙記事を見ていると、まー論点がぐちゃぐちゃである(笑)。これでは話がかみ合うはずがない。例えば、以下の様に整理できるのではないだろうか。

  1. 今の原発(とその影響)の状況はどうなっているのか
  2. 今の原発の管理運営・事故対策はどうなっているのか
  3. 今それらの情報はどのように報道されているのか
  4. 今回の事故と関係なく原発はどういうものなのか
  5. 今回の事故と関係なく普段の管理運営や対策はどうなっているのか

最初のテーマを除く全てに「で、どうあるべきか」が付随する。また、これらは相互に重なり合う部分があるとはいえ、十把一絡げに論じるのはナンセンスである。
特に、この事故を受け、反原発運動家が「それ見たことか」という論調で息巻いているが、それはこの緊急事態・非常時を(普段温めている持論たる脱原発論を主張するための)「絶好のチャンス☆」と見ている以外の何物でもなく、建設的でないばかりか極めて不謹慎だとすら考えている。
まずは目の前の話、論点1-3に絞って、今は知恵を結集すべきだろう。

「今」について

まず安全性と、その安全性に対する信頼性の話。ここで「安全性を信頼できない」とする意見は、いくつかの点がごっちゃになっているように見える。具体的には、

  • 放射線量や物質の量など各種の観測値・推測値に関する不信
  • 管理運営・事故対策に対する不信
  • 報道に対する不信

が複雑に入り乱れているようだ。
数値に関する不信は、その数値が何を意味しているかを科学的知識を使って解釈する術を持たないために生じているように見える。この、いわば「難しくてわからない」ことに起因する漠然とした不安は、「信頼できる科学者」の査定を信頼して頂く他あるまい。逆に言えば、こういうときに信頼してもらえるように、科学者一人一人が普段から活動しなくてはいけない。「TVに出てる専門家のコメントが信用できない」と言う人も少なくないようだが、不幸なことだ。
その査定の根拠となるデータの発信源である管理運営、つまり「人」に対する不信がある。今までの隠蔽の積み重ねがこの不信を招いたのは否定できない。しかし今それを言うべき時か?というのが真っ先に僕が思いつくことだ。次に、発表が信用できるか、という問題は、在野の専門家達が検討している状況を見ている限り、特に矛盾はなく、その意味で信頼して良さそうだ、と僕は考えている。これだけ連続的にウソをつき続けると必ず整合性がとれなくなるものだ。しかし、ウソはつかなくとも「大事なことを隠している」ことはあり得ると思うかもしれない。これについても、在野の専門家達は科学的見地から「今こうなっているはず」と予測を行っている。その後発表される状況と予測がほぼ整合性がとれていることから、これも(今のところ)大丈夫と言えそうだ。ソーシャルネットワーク時代の面目躍如とも言えよう。
ただし、これは重要だが、現在とられている対策行動がベストかどうかは、僕には判断できない。残念ながら僕には原子力発電(所)の仕組みや核燃料の取り扱いに関する知識が無い(それは僕の所持する資格「放射線取扱主任者」の管轄ではなく「原子炉主任技術者」や「核燃料取扱主任者」の守備範囲なのだ。ただ放射線取扱主任者と共通するところも多いだろうから、分かる範囲でものを言っている)。おそらく「今わかる範囲でベストチョイス」というのは存在するので、それを選択してくれていることを願う(おそらく、終わってから無意味な文句を言う人が続出するのだろうが)
報道についての不信は、前2つとはやや様相が異なる。報道がバカ過ぎて重要な情報が落ちているのではないか、ちゃんと伝わっていないのではないかといった類いの不信のようだ。例えば、記者会見の模様が流されているが、そこで記者から出される質問のレベルの低さに天を仰ぐ声はかなり多いようだ(僕自身はTVを見ないので直接は見ていない)。おそらく科学的素養のない、あるいはそういう訓練を受けていない社会部の記者・デスクがやってるのだろうと推測する。その素養の無さは、記事に端的に表れている。自分が理解できていないことは他人には伝えられないのだから、こんな重大局面の取材に理解力の無い人間が報道の最前線で動いていることに憤りを感じざるを得ない。現時点で特に見逃せない重大な過ちは被曝線量の単位から【毎時】を取り去って報道していた点(3/15午後あたりから改善されつつあるようだ)と、数字そのものではなく平時・以前の値との比較を全面に出している点である。前者については「ローソクに一瞬指をつっこむのと、熱めのお湯に長時間入るのの区別くらいつけて報道して欲しい」という後輩I口君の喩えがわかりやすい。後者については例えば「過去最高の値」「普段の○○倍」という見出しのことを言っている。これらは殆ど情報操作と言って良い。これらから与える印象は「そんなに危険なのか!」だろうが、実際に発表された数字そのものを見れば「安全が確認された」と言える‥‥なんていう報道が多い。いま首都圏で起こっている混乱の大きな原因はこの「報道によるイメージ操作」だと僕は考えている。
ついでに言うが、いいかげん、「放射能漏れ」というおかしな表現はやめたらどうか。漏れるのは「放射性物質」であり「放射線」である。「放射性物質」が長ければ「放射源」でもいい(より正しくは「放射線源」だが)。「とりあえずホーシャノーって書いとけばウケる」と思っているのが丸わかりでがっかりだ。

追記:報道では、最悪の事態=メルトダウン炉心溶融)=放射性物質大量拡散、のように言われているが間違い。メルトダウンしたからといって放射性物質ダダ漏れになるわけではない。メルトダウンした後、容器が、建物が壊れたら漏れ出すかもしれない。しかしその場合でも爆発現象を伴わなければ「大量」漏れにはならないのではないだろうか、と僕は考えている。

「そもそも原発は」の話

さて現状のことはあえて目をつぶって、「そもそも論」に関する現時点での僕の考えをまとめておく‥‥これが今言うべきことだとは思わないが、中にはこのテーマのケンカを吹っかけてくる人も居たので(-"-;、「行きがかり上、ついでに書いておく」以上の意味はない。
まず、最初に挙げた論点のうち、「原発そのもの」について。基本的立場として、僕は原発は「イヤ」だが、「ダメ」ではないと考えている。反原発運動家の言説を見ていると、この「イヤ」と「ダメ」をごっちゃにしたものが多く、辟易する。小学生でも「イヤだけど仕方ない」ことが存在することは知っている。
少し話がそれるが、反原発運動家のアクション・リアクションを見ていると、オカルト信者のそれとよく似ているように思われる。結論が先にあり、それを固く信じていて、そのためなら重箱の隅を電子顕微鏡で観察する。「可能性はゼロではない」という主張に現実的な意義があるだろうか? 「反核」は「反核兵器」であって、以下に述べるように「反原発」「脱原発」と同列に扱うべき話ではないのだが、「唯一の被爆国」としての反核教育が効果を発揮し過ぎていて、もはや「反ホーシャノー教」が国民宗教になっているようにさえ見える。放射線放射性物質を適切に扱ったサービスは身の周りにいくらでもあるというのに。そんなにホーシャノーが嫌なら温泉に行くなよ。癌の放射線治療もやめとくことをお勧めする。脳梗塞なんかで血管造影に使うPETなんて体内にホーシャノーのある物質を注射するんだ。こわいねぇ(棒読み)
話を戻すと、原発は確かに「危ない」。どう危ないかと言うと、「事故った時の影響がハンパ無い」ということだ。しかるに見られよ、この安全さ!この記事を書いている現在、メルトダウンは起きていないらしい。今の緊急対策も奏功せずメルトダウンに至るかもしれないが、この未曾有の、1000年に一度あるかないかの規格外の大災害にあって、もっと早々にぶっ壊れていてもおかしくないところ、ここまでこの程度でもっていることは評価されるべきだし、世界に自慢していいと考えている。福島第二原発を始め、他の原発はうまくいってることは忘れてはいけない。
そもそも原発を「設計」するときに「可能性はゼロではない」というような事態を「全て」想定することは不可能だ。よく「最悪の事態を想定した対策」というフレーズがあるが、これは変なのだ。そうではなく「想定し得る最悪の事態への対策」が正しい。「最悪の事態」というものが絶対的存在としてふわふわと浮かんでいてそれを捕まえられるかどうかというようなスタンスの議論は全く現実的ではない。設計とは「ここまでなら大丈夫」というラインを設定することでもある。規格外のことが起これば壊れるのはある意味では当然と言って良い。その当然のことが起こっているのに、大災害に至っていない(現場は大惨事だが)のだ。これはすごいことだ。もう一度言うが、この特異的な事態を基準にして「普段の対策がなってない」とするのは筋違いも甚だしい。
ただし、まだ実際の現地での震度マグニチュードの話ではない)が、少なくとも僕には確認できていないが、もし現地での震度が、容易に想定できる範囲内だったとしたら、話は変わってくるだろう。また、「持続可能」な社会づくりを真っ当に考えるために1000年〜10000年スケールで物事を考えている ⇒ 従って1000年に一度の現象も考慮に入れるべきだ、と本気で言うなら、それはそれで筋が通っている。だが僕の周囲で、「本職」の宇宙物理学者・地球惑星科学者を除くと、「持続可能性」を100年先を見据えて語れる人は殆ど居ない。話を聞いてみればたいてい、「持続可能性」とは自分の子供が大人になる程度(10〜30年後?)の未来のことのようだ。
原発じゃなくてもいいじゃないか」という論がある。これは確かにその通り。ただし、今の社会を支えることができるような代替エネルギーがあれば、の話である。使い物になる代替エネルギーが現存しない以上、「原発じゃなくてもいいじゃないか」という主張は、「代替エネルギーができるまでは、原発が無くてもやっていける程度まで節電しましょう」と同値であって、それは現実性があるとは考えにくい。さらに近い将来、化石燃料=石油・石炭などが底をつくことはほぼ確実であり、そのことは現在の発電の大きな割合を占める火力発電が使えなくなることを意味する(それはいつやってくるかわからないが、少なくともあと100年は持たないだろうと僕は考えている)。それでも原発という選択肢を取らない、というのはこれまた現実的とは言えないのではないだろうか。その意味で、僕は「イヤ」だけど「ダメ」ではない、と言っているのだ。代替エネルギーの開発と実用化は、僕も熱望している。
重要なことが2つあって、1つは、僕のこの意見については、「正しい」かどうかはもちろん大いに議論の余地があるし、議論されるべきだいうこと。例えば「原発が無ければ通常営業は無理なのか」に関しては、僕は定量的な裏付けをしていない。毎夏になると叫ばれる電力不足への懸念や現在の原発のシェア(2〜3割程度)からの推測に過ぎない。また化石燃料の枯渇の期限については、研究者(の立場)によって、その評価の前提の仮定がバラバラで推測値もバラバラだ。あるいは化石燃料の枯渇はある日突然やってくるものではないので、その前に価格の上昇が起こるのは確実だ。するとみんなが経費削減のため節電を始め、代替エネルギー化が進み、化石燃料無しでも電力不足に至らない社会になるというバラ色のストーリーを描くことは一応可能である(僕はこれはお人好し過ぎる発想だと思うが)。要するに、議論の余地があるということだ。
重要なことの2つ目は、その議論した「科学的な選択の結果」が社会に受け入れられるか、「国民的感情」と整合性がとれるか、という課題がその後に待っているということ。逆に言えば、ここまでは「感情」でモノを言うべきテーマではない、ということだ。ここをはき違えてはいけない。
最後に管理運営と各種対策のあり方について。仮に「原発そのものが信頼可能である」と証明できたとしても、それを使う人間がずさんな管理をしているなら、信頼も何もあったもんじゃない。一にも二にも情報開示である。事実の隠蔽ほど不信を呼ぶものはない。逆に言えば、上で述べたように「万全の対策」とは事実上存在しないのだから、「ここまでの想定をしていて、こういう対策を考えています」と最初から開示して、(建設的な)パブリックコメントを集めそれをフィードバックする、というようなあり方が望ましいと考えている。「電力会社の歴史は隠蔽の歴史だ」という言説を見かけたが、残念ながら今まではそうだったのだろう。全く残念である、としか言えない。

最後に

東北地方の被災者の方々には、残念ながら、今僕にはできることは特にない。せめてこのように科学者としての見解を述べることぐらいしかできない(募金は妻にやってもらったけど)原発事故現場に比較的近い方々のストレスは想像すらできない。
ただ、それでもせめて伝えたいことは、事態は「安全」か「安全でない」か、の2択ではないということ…安全には程度があって、「このぐらい安全」という言い方しかできない、という事実。そして現在、事故現場近傍以外では、「かなり安全」ということ。核爆発はありません。原発は気になるでしょうが、放射線放射性物質を怖がるのではなく、むしろ震災・津波災害からの復旧や避難所での健康維持のほうにできるだけ集中して頂ければと思います。