「事業仕分け人vs科学者」事件についてのコメント

明後日の公開講義で話すネタにしようと思うので、ここに書き付けて、脳内を整理しよう。だからあまりまとまっていないがそれは平にご容赦。

事業仕分け」のキーワードは「国民の視点」である。
国民の視点で科学が切られたわけだ。これについて(主として科学が日本の生命線だという論調に同意する人々からは)特に陣頭に立つ「必殺仕分け人」ことレンホー議員の語調や見識の低さについて批判する声が上がっているように見える。
まぁ確かに見識を疑う発言だなとは思うが、しかし某SNSで日記をつらつら見てみると、レンホー議員に肩入れする日記も少なくないのである。ざっと見た限りでは40%と言ったところか。ということは、レンホー議員の勘違い、一人旅、勇み足、でもないわけだ。
それだけ「国民の視点」と「科学の視点」は一致していない、ということでもある。

なぜか?
原因は2つあると考えている。
その「視点」が想定している「タイムスケール」=時間的な尺度が違うことと、「失敗」に対する認識の違い、である。
「科学」というより「研究」というほうが良いだろう。例えば切られる寸前の科研費や学振制度はいわゆる「理系」の研究だけに限らない。
きょうびの研究予算は、「その予算でどれだけすごい成果が期待できるか」を「どれだけ具体的に書けるか」で決まる。
だが、カネの話の前に、「研究」という言葉の意味をよく考えて欲しい。
何をやったら何が得られるか、はっきりわかっているのなら、それは「研究」ではないだろう?
どんな単語が相応しいかと聞かれれば、まぁ、「作業」ぐらいになるだろうか。つまり、「研究」という行動の「成果」が出るかどうかは、はっきりとは言えないはずなのである。

出るか出ないか分からない成果が、仮に出たとしても、一般的な生活に有形無形の利益をもたらすような‥‥陳腐な物言いをすれば「役に立つ」ような代物かどうかも分からない。ましてや研究費の足しになるような「カネになる」代物になることなんてまずあり得ない。

そしてそんな成果が出るかどうかすら分からない研究という行動が何らかの「結果」まで至るまでの時間というのは、研究だけをやれる環境にあるなど恵まれた条件があれば早くなるけれど、どんなに短くても1年。一つのまとまった成果が出せるまで、普通の研究者(※研究しかしなくていい研究者など居ないことに注意)なら最短でも3年はかかるんじゃないだろうか。〆切を切られ、よくわからないけど結果っぽいものをまとめて「成果」っぽく飾った「実績報告書」など星の数ほどあることを考えれば、(役立つかどうかは度外視して)胸を張って「成果です」と言えるようなモノ/コトが得られるまでは、ざっと10年ぐらいは見ておいた方が理にかなっている。
要するに時間がかかるのである。一生を賭ける人だってざらにいるのである!
では、ここで度外視した「役に立つかどうか」という「国民の視点」のタイムスケールはどのくらいだろうか。
簡単な話だ。自分の払った税金の効果が出るまで、あなたは何年見守れますか?ということだ。10年?そんなお人好しはこの世に居ない。半年もあれば首相が変わるのである。せいぜい2年が関の山だろう。

ちなみに、研究費を「自分で稼げ」という人がいる。気持ちは分からんでも無い。しかし、モノが生み出せるかどうかなどわからない、と今言ったばかりだ。そんなのに「安定的に」資金が、「民間から」入手できるかと言えば、これまたそんな酔狂な人がいるわけもない(だから公的補助が必要なのである)。何ができるかと言えば、せいぜい、自分の持ち得た「知」を売るぐらいのものだが、印税や講演料だけで食って行こうと思ったら、研究などしている時間はない。

仮に、待つ待たないかはともかく、10年が経過して、「研究」の結果、「うまくいかなかった」即ち「失敗」と判定された場合はどうか。
「研究」の視点からは、ひと昔いやふた昔ぐらい前に「失敗学」という言葉が流行したが、「失敗」とは「こうすればそうはならない」という制約条件を明らかにしたという意味で、成果に近づいたのだから、「成功」の一種とすら言える。
ところが納税した「国民」の視点からはどうか。食券制のラーメン屋で注文して待っていたら、キッチンから中の人が出てきて、「すんません、ラーメン伸びちゃいました。今日のタイマー設定では伸びることがわかったので、明日からはゆで時間を短くしますねー」と言ってのける厨房のようなものだ。我慢できる訳が無い。

わかるだろうか。
「国民の視点」を持ち込む限り、「科学予算」ないし「研究予算」など百害あって一利無しなのである。切られて当然なのだ。

予算だけではない。「研究」という行為が「国民の視点」のタイムスケールと合っていない以上、評価の軸が逆である以上、『研究者』だって社会のお荷物以外何者でもない。実際、「学者センセイは‥‥」というフレーズを耳にすることが多いのだが、世の人々が「学者センセイ」という言葉に込めるニュアンスは、研究者にとって青酸カリにも匹敵する毒だ(そのことに気づいていない研究者が多いことが問題でもあるのだが)
無駄を削るという行為は大変良いことである。多いにやれば良いと思う。しかし、それと科学は根本的に両立しない。科学するということ、研究するということそのものが無駄そのものだからだ。これは、「それでも研究は(科学は)必要か?」という議論とは無関係な、単に事実関係を確認したまでである。

強調しておくが、それでいいと言うつもりは全くない。ただ、その方法でいくなら、その判断基準でいくなら、その結末は当然だ、と言っているだけだ。

科学者たちは、「それでも科学が必要だ」と訴える前に、ノーベル賞受賞者も含めて、自分たちが社会のお荷物であることを自覚するべきであろう。エラそーなことを言う前に、国民の皆さんに「生かされている私」を自覚するべきであろう。

では、仮に、その上で「無駄であっても研究が(科学が)必要だ」とするなら、「お願いですから私たちを見殺しにしないで下さい」と訴えたいなら、どうするべきなのか?

オレは「国民の視点」を変える以外無いと考える。税金の効果が10年待てる国民に、失敗から学ぶ研究者を見守れる国民に、育てる、いや、育って頂くしかないのである。

「研究」が「文化」の一部になって初めて、「国民」という(個人ではない)大集団は、そういう視点を獲得できる。
今の大人から始め、その姿を見て自分も教育を受ける今の子供たちが、親になり、その子供たちへと受け継がれるようになって初めて「文化」になる。あるいはもう一代かかるかもしれない。
まさに社会教育というやつだが、「教育は国家100年の計」とはよく言ったものだ。
だから、科学者は、研究者は、まず、自分たちは何屋なのか、自分たちがやっている「研究」という行為が一体何を行うことなのか、何をしようとしているのか、何のためにやっているのか、統一する必要も無ければカッコつける必要も無くて、ありのままを周囲の人々に伝え、理解してもらい、批判や助言を受け、お荷物という立場を脱して社会の一員に認めてもらわないといけないのだ。
今、科学予算が切られようとしているのは、前世紀の遺物のようなコメントを発しているノーベル賞受賞者たちの世代の研究者が、外部とコミュニケーションをとって来なかったせいに他ならない。
今、現役の研究者たちは、外部への働きかけ即ちパブリック・アウトリーチを重視している。というか、そうでなければ雇ってもらえない。ようやく研究者業界がそのように変化してきたところだ。そして、言うまでもないが、その効果が出るのはどんなに早く見積もっても50年以上先の話である。