ルールを守れないのは過信

自分自身に課した習慣やルールにせよ、一般に守るべきとされているルールにせよ、自分自身が自力で「判断」をすることを省略する為のガイドブックあるいはマニュアルであることには違いない。そんなものが存在する理由のうち、社会的要請ではなく自分自身にとっての存在価値は何かと言うと、結局のところ、自分の脳を信用できるかどうか、にかかっているように思う。「判断」が重荷になる理由は、その判断の結果に責任を負えるかどうかについての不安だし、それは即ち「判断」を行う「自分の脳」に対する信頼度である。

ということは、「ルールを守れない」という現象は、自分に対する過信の現れではないだろうか。

本来なら、ここは、自分に対する「信頼」と書くべきなのだろうが、それが適切なのはついてくる結果が客観的にも見えそうな場合であろうから、例えば「北斗の拳」のケンシロウであるとか、「修羅の門」「修羅の刻」の陸奥の皆さんとか、「ウルトラマン」のウルトラマンとか、そういうレベルの人であってルールを守らないのなら、それは責任がいかようにも取れるからこその「自分に対する信頼」と言えるだろう。結果も見えない凡庸な我々がルーズだったら過信だろう。

ルーズな人ほど自信家、というのは当たらずとも遠からず、ではないかな?

‥‥うん、オレのことだなやっぱり。反省します。