「片付け」に関する覚え書き

「隠す」や「ひとまとめにして別のところに置く(あとで何とかする)」というのは「片付ける」ではない。「床の上にモノが置いてあるのが気に入らない」という人がよく居るが、「床の上からモノがなくなる」ということと「片付ける」ことはもちろん違う。また「収納」は「隠す」とほぼ同義で、「片付ける」の中の1つの手段に過ぎない。

念のため言っておくが、「ぐだぐだ言ってないで片付けろよ」という人には絶対に到達できないレベルの「片付け」の話である。一昔前は「ぐだぐだ言ってないで派」だったこともあったが、まさにバカの一つ覚えというやつで、それではかえって状況が悪くなることの方が多いとわかったのでやめた。

何が違うのかというと、目標が違うのだ。「片付ける」という行為の目標は使いやすい環境にすることである。というか、そうでなければ単なる並べ替えでしかないわけで、無意味だからだ。環境を「モノの再配置」によって「最適化する」ことと言ってもいい。「モノの再配置」は手段であって目標ではない。「床の上に〜」の話はまさにこのことを言っているのだ。

その意味で、最も片付いた状態というのは、全く能動的に片付けないことによってのみ得られる状態‥‥一人暮らしの人の部屋である。全てのものが「定位置」から手の届くところに配置されているだけでなく、経年変化により不必要なものは淘汰され、本当に必要なものだけが残る。いわば最適化である。ただし、見た目は極めてよろしくない。またその当人にしか最適化されていないので他人では使いこなせない。従って、このケースは「一人暮らし」で、なおかつ「誰とも共有空間が無い」ということが前提の最適化である。そう、環境を共有することを意識しなければ、「片付け」は成立しない。その意味で、「誰かが勝手に『片付けた』ので何がどこに行ったか分からない状態」は「モノが散らかってて何がどこにあるか分からない状態」と同じである。単にモノを並べ替えただけだ。

同じ過ちは、自分の脳を過信することでも起こる。片付けた結果を全て把握しているつもりになっている人がいる。それでは誰にも伝わらない。片付けた情報を共有していなければ無意味だ。インデックスを付けるなど、何がどうなっているのか分かりやすく「収納」しなければならない。また他人と情報を共有するだけでなく、未来の自分との情報の共有ができることも考えねばならない。脳はとても不確定な記憶しかできないものなのだ。よくある「アレは大事なものだから『キチンとまとめて』置いといたのに、どこに置いたか忘れた」というやつは、「未来の自分」に分かりやすい収納をしなかった結果である。

次に重要なポイントは、得られる状態の「使いやすさ」である。これはケースバイケースなところはあるが、少なくとも「隠す」だけでは達成できない。むしろ出しておいた方が使いやすいことのほうが多い。モノは「使っているところ」に集まるからだ。

1つのヒントは、「規格化」あるいは「標準化」ではないかと思う。よく、段ボール箱をとっておいて、収納に使うというのがある。しかしたいていサイズがバラバラなので、かえってデッドスペースを作ることになるし、その箱が傷んだら交換できない。紙袋も同様である。例えば、収納のネタ本に頻出する「立てて収納」というやつには、「立てるためのもの」が少しずつ必要なことが多い(書類なら紙ばさみ、布団なら圧縮袋など)が、そのサイズを統一しておくだけで、空間的なムダを少なくできるだけでなく、「誰にでも管理できる」という「情報の共有」が可能になる。整理整頓された感じのするオフィスは、たいてい何かのブランドで統一されているものだ。

最も重要なポイントは、「現状は、なぜ片付けねばならない状況になったのか」ということである。いろいろなケースが考えられるだろうが、思うに大多数の場合は「モノが増えた」ことによるものだ。いろいろな意味合いで「モノが増える」のだが、必ず余分なものが発生しているはずである。本質的な「モノ」は全て必要であったとしても、「付属物」は余分であるだろう。近日中に使う予定の「時計」は捨てられないかもしれないが、入ってる「段ボール箱」や、それを買ってきたときの「紙袋」は捨てられる。だから、まず間違いなく「捨てる」作業をしなければならないはずなのだ。捨てずに「片付ける」ことはあり得ないと言っていい。