殺人者の論理と、ひとを殺してはいけない理由

ニュースやニュースに対するブログをつらつらと眺めていると、たとえばこの記事に報道されている土浦通り魔事件の被告の論理について、いろいろな意見が出ているようだ。曰く、「身勝手な理論」を「振りかざしている」などなど。
大量無差別殺人という、社会的に受け入れられない事件を起こした殺人者であるから、初めから叩くつもりで聞けば、そういうふうに聞こえるだろうが、本当にそうだろうか?「身勝手な」などと一般紙でレポート記事を書いている新聞記者こそ自説を振りかざしているということに気付いている人はどれだけいるだろうか?
先入観なしに話を追えば、被告の論理は極めて明快であり、論理的にというか、理論的にというか、見方によっては実際的にも、非常に「筋の通った」ものである。そこのところをきちんと捉えている意見は、残念ながら見かけない。「こんなにムダな時間が過ぎるのなら、死刑で死のうという選択は間違いだった」という陳述さえも筋が通っている。
もう一度言うが、彼の述べている論理は、それ単独で見れば、「筋が通っている」のである。しかし、そのストーリー(およびそれに基づいて行われた行為)が、「今の人間社会に受け入れられない論理」であるから、裁かれているのである。受け入れられない理由は、もちろん、殺人してはいけないというルールがあるからだ。人を殺してはいけないから、ではない。そういうルールがあるから、だ。ここを間違ってはいけない。
現に、そんな取り決めの無い社会、つまり野生動物達の世界では、まさしく彼が述べている通り、「ライオンがエサを殺す時、命が大切だとか何とか、考えるわけない」のである。それが屁理屈でない理由もちゃんとある。人間社会だって、そんな取り決めを臨時に捨てることがあるからだ。それが戦争であり、テロである。イスラム過激派たちにとって、親米な世界の人間の命など「蚊を殺すように」消せるだろう。
話を戻す。ではなぜそのような取り決めがあるのか?なぜ命は大切なのか?‥‥残念ながら、1つの例外を除いて、寡聞にしてオレは(かの被告の論理に比肩しうる)説得力を持った「命の尊さ理論」を聞いたことが無い。
その唯一の例外は、「自分が死にたくないから」である。「自分の大切な人が死んでほしくないから」もほぼ同じと思っていいだろう。死刑制度の是非についての意見を見ていればそれがよくわかる。あーだこーだと説をこねくり回している人も、要は「自分が死にたくないから」というモチベーションをなんとかして取り繕おうとしているようにしか見えない。
もう一度言うが、管見によれば、世の人々の中に「命の尊さ」という概念を産み出す源は、「自分が死にたくないから」という自己保存本能である。そうでなければ、人間の命だけがこれほど特別扱いされている理由が無い。「自分の命以前の問題として、全ての地球上の生命が同様に尊い」とみんな根底で思っているのなら、大量殺戮の上に成り立っているグルメ番組など存在するはずがない。
別に、それでいい、と思う。オレだって死にたくない。だから、みんなお互いに殺さないようにしようよ、と思っている。殺してやりたい、と思うことはあっても実行に移さないのは、それを許すのなら自分が殺されても仕方が無いことになってしまうからである。だから、殺しちゃいけないルールが必要なのである。あれこれ小賢しい理屈を糊塗したところで、これに勝る論理は無い。
だからこそ、本件の殺人者のように、自分が心から「死にたい」と思った瞬間に、全ての「命の尊さ理論」、中でも、全ての「人間の命を特別扱いするルール」の根源が失われ、この「ひとを殺してはいけない」という取り決めは効力を失う。それが、この事件の本質だと思う。
だから、「同じような事件を繰り返させないための対策」を、もし考えたいのであれば、なぜそんな論理になったのか、という議論は、殆ど役に立たない。重要なのはなぜ死にたいと思ったのか、である。つまり、自殺者を減らすためにはどうすれば良いか、という議論の範疇に収まるのである。相も変わらずゲームのせいにしてるバカジャーナリストには絶対にわからないだろう。