要旨の時制から考える論文のありかたとその変遷

論文には要旨が付く。この要旨というものは、基本的に、全て現在時制で書くもの、とされる(少なくとも「理系」のそれにおいては)。

これは一体、何を意味しているのだろう?なぜ過去形ではいけないのだろうか?

日本語の論文しか見ない人々にとってはわかりにくいことであろう。
なぜなら、この「現在形」の要請は、英語で論文を書く時に、「文法的に」導かれることだからだ。

日本語でもある程度そうなのだが、普通の文章において、現在形を用いることは、頻度の上で、案外少ないものである。現在の状況をそのまま記述するならば現在形を用いそうに思われるが、それとて「現在を観測した」「観測の結果はこうだった」という過去形で語られるため、現在形にはなかなかなりにくい。

では現在形をあえて用いるのはいかなる場合だろうか?それは、過去でも現在でも未来でも成り立つはずの大小さまざまの「真理」に関する主張であったり、その不変的事実を語る場合である。

このルールは、特に時制にうるさい英語で顕著になる。思い出して欲しい。形式的に「過去形」の姿を借りて現在の話をするための語法「仮定法」の例外規定、あるいは文中に別の文を入れる「間接話法」あるいは「複文」における時制のズレを吸収する「大過去」などのシステムの例外規定では、真理に関する叙述はいかなる場合も現在形の使用が規定されているのである。

だから、要旨に現在形が要求されるということは、要旨にはその論文から導かれた「真理」を書かなくてはいけない、ということを意味するはずなのだ。逆に言えば、「要旨が現在形で書ける内容しか論文にしてはいけない」ということであり、もっと言えば、論文を書くからには、そこから何がしかの「真理」が導かれることが論文の論文たる条件である、ということなのだ。

ところが、である。

実際には、だんだんと、要旨に過去形を使う論文が増えてきている。なぜだろうか?

学問が深化し、専門化・複雑化するにつれて、やったこと・観察結果から真理を導き出すというその過程の部分がどんどん深化・専門化・複雑化し、要するに、小さくとも真理にたどり着くまでですら簡単でなくなった。
そこで、なんらかの真理にたどり着かなくとも、やったこと・観察結果そのもの、いわゆる「結果」の部分をアーカイブすることそのものに意義が出てきた。誰かがこの「結果」から新たな「真理」に到達するための礎を整備することそのものが知的な「生産」活動として認知されてきたのではあるまいか。
なぜなら、写真や報道と同じく、現実の切り取り方、まとめ方そのものが既に著者の主張を反映しているから、単なる事実としての「結果」あるいは客観的な「結果」であったとしても、どういう文脈でどういう結果を導いたか、という点で、オリジナリティがあるはずだからだ。

だから、そのような要素が、論文に増えてきた。

それに伴って、「○○した。するとこんなことになった」というように、要旨の時制に過去形が増えてきた‥‥というわけだ。



さて、この試論の正否、あるいは「正否の度合い」は、どんなもんだろうか??