リベラルアーツ

「やりなおし教養講座」(村上陽一郎)より、リベラルアーツとその周辺について、オレに必要なところを要約:

12世紀のヨーロッパで、高等教育制度としての「大学」=「ウニベルシタス(universitas:ラテン語)」ができた

このとき、根底に据えられたのが「リベラルアーツ」(ラテン語だと「アルテス・リベラーレス(artes liberales)」)

まず、知識人は一握りしか居なかったが、ヨーロッパ各地に居た。普通の言葉と、「知識人用の言葉」があった。普通の言葉は、フランス語とかドイツ語とか英語とか、あるいは方言も含めても、みんなが違う言葉をしゃべっていたので、そんな人々が各地から集まってくる「大学」では、「共通語」が必要になった。

共通語としては、ラテン語が選ばれた。従って、ラテン語を学び、使いこなせるようになることが、知識人へのパスポートだった。だから、言語の「文法」・「論理」と、使うだけでは文章にならないので、文章をいかに巧みに説得的に書き上げるかという「修辞学」、これらの3科目が、まず大学に入ってまずやらなければならない基礎の「技(arts)」だった。

この言語の三科に対して、天文学・算術・幾何学・音楽の「四科」があって、合わせて7科目がリベラルアーツであった。

この四科は、人間が、知識人としての立場で、自然に対してアプローチしようとしたときに、身につけておかなければならない基本的な「技」がこれら4つであった。

なぜか?

「技」は「技」でも、生活に直結するような技(調理、農作法、建築法、工作道具の使い方etc.)は、奴隷たち即ち「自由でない」人たちが身につけておけば良かった。リベラルな、つまり自由人たる「市民」たちは、奴隷に言えば指図すれば良かった。

では、「自由人」たる市民層が身につけなければならない技は?‥‥それが、言葉の技と自然を追求する技だった。大学で扱われる「スコラ学」はキリスト教をベースとした学問でもあった(スコラ神学)。従って、言葉に関する「3科」は神の言葉即ち聖書を読み、解釈し、それを人々に説くための技であり、神のもう一つの「書物」とも言える自然を読み解くための技が他方の「4科」であった。

これが「自由の技」=リベラル・アーツの源流となった。そして「知識人」の殿堂たる「大学」は、このリベラルアーツの先にあるところで、考えを深めて行くところであった。

リベラルアーツ・カレッジ‥‥アメリカのアイヴィー・リーグ

アメリカの「アイヴィーリーグ」と呼ばれる6つの有名私立大学は、典型的なリベラルアーツ・カレッジである。

「専門家」としての知識人を目指すのではなく、「広い知識」を身につけ人間的に成熟することを目的とした「教養」を大学の4年間で行う。

その上で、専門家になりたい場合には、リベラルアーツ・カレッジである大学を卒業した後で、その上にある大学院へ進んで専門教育を受ける。これがロースクール、メディカルスクール、ビジネススクールと言われるもの。日本の殆どの大学のように、大学入学の時点で何かを「専攻」することは前提としていない。充分に広く深い教養を得て、単なる知的エリートではなく成熟した良き市民であるという資格を以て、その上で弁護士なり医者なりになるための訓練を受ける仕組みである。日本版ロースクールとして法科大学院が作られたが、そもそもロースクールに進学する前の大学でリベラルアーツとしての教養教育を受けていない。

フランスのリセ、ドイツのギムナジウムは、「大学に入る前に、人間的な成熟と基本的教養を培い、それを資格としてauthorizeする」という意味では、このリベラルアーツ・カレッジと同じ役割を果たしているかもしれない。日本の旧制高校も、そうかもしれない。

実学」と「虚学」‥‥福澤諭吉『学問のすゝめ』(p.171〜172ほか)
一般的に、通常、最も典型的に学問を実学と虚学に分類したと言われている。この、福澤の「実学」の概念の中には、明らかに心の問題、自分自身の問題というのが含まれていて、それ抜きで実学というものはあり得ないということを明確に述べている。その証拠に、福澤は「実学」の中に「修身」を含めている!