限界集落を見て思うこと

まず、現状で限界集落にお住まいの方々にはある意味申し訳ないのだが。

普通、より便利なところへ引っ越そうと思うだろう。不便なところにわざわざ引っ越すのはあまり普通ではない。よほどそこが好きであっても、それを超える不便さがあればそこには行かない。オレが今の家に行き着いたのも、確かに前の家よりは不便になるが、その不便は以前早朝バイトしてた頃と同じ程度に早起きすれば済む話で、むしろ特急を移動オフィスとすることで以前より生産性は上がっているぐらいである。

だから、不便なところは、まず衣食住とライフライン(移動手段も含む)と医療が確保されなければもっと悪くなる‥‥というのは明らかだ。

次。
限界集落のような「村」では、何かしら、伝統の様式がある。儀式的なものであったり、大切にしているお社だったり、農耕法だったり。そういうものを大切にし、保存して行きたいと思うのは正常だと思う。しかし、その「村」を、例えば「昔のように」とか「今のままで」とかいうノリで保存・復興しようというのは無理な話である。その「昔のように」していたからこそ、今のような限界集落になったわけだから、同じことをしても同じようになるだけである。残すものを選び、それ以外は捨てないとどうにもならない。

最後。
限界集落の多くは中山間地(ちゅうさんかんち)である。農業か、林業が大きなウェイトを占める生活圏とならざるを得ない。畜産業もあり得るが、村の大部分が牧場とか、どこの家にも畜舎や鶏舎があるというのは考えにくい。
安いアジア圏の食料品や林業製品が輸入され、国内でやっていくのは厳しいという。しかし、必ずしもアジア圏でなくとも、穀倉地帯というのは存在する。そういった地帯の人々‥‥第1次産業がメインなのではなく、大規模に見れば第3次産業がメインの地域‥‥は、後継者問題などはどうしているのだろう?先進国アメリカの、第1次産業で名を轟かすような「ど田舎」の若者はどこに行くのだろう?もしそういった地域でなんとかなっているのなら、そういった地域を含む国々の「システム」を学ばなければならないだろう。なぜなら、ものすごく端的に言えば、「農林業ウマー」ってなってないから人が居ないわけで、もし逆に後継者が居るのなら、なにがしかの「ウマー」なことがあるわけだからだ。
いわゆるサラリーマンより儲かるなら、みんな農家やってるはずだ。そっちにお金が行かないのは何故なのか、というと、食料の価格が、第1次産業を成立させるような価格でないからだ、と思う。少なくとも今の「システム」では、今の価格では、そもそもそんな価格では産業構造が成り立つはずがないのだろう。
きっと、「穀倉地帯」では、まぁ都会のサラリーマンよりは儲からないにしても、日本の農林業よりはマシな扱いが半自動的になされるような「システム」があるはずだ、と推測する。誰かが誰かに能動的に「マシな扱い」をしようと努力しないといけないシステムは破綻するので、「半自動的に」というのがポイントである。