オレの仕事&人生論

年寄りには叩かれるのがオチだが、かといってピチピチの20代でもなく30過ぎたわけだし、これぐらい言い放っても良かろう。勝手論だから文句は受け付けない。
人間は一人で生きている訳ではない。人が二人以上いれば、何らかのルールができる。それが政治というものの本質だろう。共同生活を営む上で、そのルールのもとでは、できることとできないことがある。やりたくなくてもしなくてはいけないこと、やりたくてもできないことがある。仕事というのは、本来、食って行くために、生きて行くために必要な労働である。自給自足の時代であれ、カネの時代であれ、それは同じだ。やりたくなくてもやらなくてはいけないことなのだ。やらなければ死ぬから。カネのない奴に人権は無い、これが現実だ。そしてそのやりたくなくてもやらないといけないことは共同で行えば少しは楽になれる。組織の存在価値というのはそういうものだ。一人で何でもできるなんて戯れ言以外の何物でもない。普通は、仕事というのはそういう中でやりたくないけどもやらなければいけないことであって、やりたいことがそのまま仕事になるなんてことは普通ない。

養老孟司が言うように、人間はどうやっても他人にはなれない。どんなに頑張っても他人と同じようにはできないのだ。だからオレは、個性とはどんな隠そうと思っても隠しきれないその人の資質、だと思っている。個性など放っておいても勝手に出てしまうのだから、無理にのばさなくても良い。むしろ個性を頑張って抑えなければ共同生活が成り立たなくなる。没個性の努力ができない人間に個性を発揮されては迷惑なのだ。そして他人に迷惑をかけるということは即ち共同生活を乱すことであり、待っているのは孤立、即ち人間のもつ重要な性質「社会性」の死である。「権利」の反対語は「義務」なのだ。特に仕事については、上で言ったように共同生活の粋、とでも言えるものだから、没個性で当たり前なのである。一人でサバイバルするしか他に方法がなかった風土の伝統を誇るアメリカ文化が好きならば、アメリカへ行って、サバイバルできず荒野に散って行ったたくさんの命を思いながら勝手にのたれ死ねば良い。繰り返すが、人は一人で生きているわけではないのだ。

だから、仕事に個性を発揮しようとか、大組織を抜けて独立起業しようとか、そういう論調を見ると本当に腹が立つ。一人の成功者の陰で、同じようなチャレンジの末に何十人、何百人が辛酸を舐めているか。一人の成功者はどれだけの人々を踏み台にして来たか。そういう事実をきっちり紹介した上での話ならまだマシだが、それすら無いのは「成功術を説く」のではなく「そそのかす」「たぶらかす」という言葉が相応しい。

オレ自身が科学者というイバラの道を歩んで来て、長い間かかってようやく来月から人並みの職業人としてのスタートを切ることができるようになっただけに、「普通」であることの素晴らしさをよく知っているつもりだ。無理して学生結婚し、ヨメさんに扶養され、多額の学費を払い続けてようやく博士号を取ったら任期付きのハンパな職にしか就けず、子持ちで30過ぎて食い扶持も無くなり高校生に混じって早朝バイトもやった。今までオレ自身だけでなく家族・親族がどれだけ世間の笑い者だったか、陰口を叩かれて来たか、想像に余る。もちろん学者になりたいという夢があったからそれを通してここまで来れたわけだが、だからと言ってこんなのは他人様に勧められるような生き方では決して無い。「普通」であることに飽き足らず、新天地で輝け!なんてとても言えない。「普通」バンザイ!

輝きたいなら仕事以外でいくらでも輝く場所はあるはずだ。「仕事に生き甲斐を見出せない」「自分が輝ける仕事をしよう」そんなことを言うような人間は、仕事でしか生き甲斐を見出せないのか、輝けないのか、と可哀想にさえ思えてくる。

なぜいきなりこんなことを書いたかというと、今朝の通勤電車で読み終えた本の書評を書こうとして、考えてたら、ここばっかり膨らんだんで、別の記事にしてみた、という次第。