ゆうきともレクチャー@Card Shark (5)

ゆうきゼミ冒頭は、終電が気になるオレを先にさせてもらった。例によって(?)、何か演じて、それに対するコメントを頂くわけだが、これについてはあらかじめ決めておいた。お客さんから借りて混ぜてもらった一組を使い、フリーチョイスで見てもらったカードを何もしないで当てる、という『一番シンプルなカード当て』である。

‥‥手が震える震える(笑)

ま、とりあえず、「それなりにつつがなく」完遂し、ご意見を頂く。

曰く、「ちからの入ってる・抜けてるがバレ杉」。

そして、それが原因の、一番の問題点を「裏の仕事のタイミングと表で見えていることがらのズレ」と非常にツボな表現で説明しておられた。この作品ほど『何もしない』カードマジックもそうそう無いと思うのだが、それでもなのかオレorz。

奇術研ではきっとこういうところは鍛えられるんだろうなぁ‥‥と自分の非から逃れてはいけないのだ!(※オレは奇術研究会・サークルの類には一切入ったことがない『流しのアマチュアパートタイムマジシャン』だ)ちゃんと上半身全体をビデオに撮ってみよう。きっといろんなところがバキバキに固まって目がシンクロナイズドスイミング(ペア)してるんだろうなぁ。あとやっぱり一人練習するときは、もっと実際に人を相手にしている気分を高めてから『妄想練』をしよう。

続いて曰く、「どう見えたいか?という目標の設定が重要である。」

今回の例で言えば、いちおう、カードで行うメンタル系、ということになる、というかなり得るものである。と思う。しかし、オレの立ち位置がはっきりしていない、という指摘である。これは難しい。
ちょっと外れるが、やや残念だったのは、議論の中で、少しオレの『この作品を作った動機』について上手く説明できなかったこと。『きっかけ』は、「ちょっかい出してくるおっちゃんを黙らせるために」であったが、あれやこれやと試行錯誤していくうちに、『どこまでシンプルなものを作れるか?』『そもそもカード当てってどうなったら理想なのか?』という問題への挑戦、という部分があったのだ。それが「これは作品として成立しているのか?」という質問になったのだった。

ま、それはさておき、自分の立ち位置である。考え始めるとややこしい。というのも、これはある意味で、「お客さんの求める自分の芸風はこうなのである」という自己認識でもあるだろうから、かえって難しいという点もあるわけだ。「アタシって○○なヒトだからぁ〜、そういうのムリなのよね〜」みたいなのが許されるのか、という議論と表裏の関係とも言えるかな(笑)。
まぁこれは極端な例かもしれないけれど、でもやっぱり、「目標として設定する」とだけ考えると自由に設定できるような気が一瞬してしまうのだけれど、実はかなり自分自身に規定されるので、だからこそ「普段オレ自身は他人からどのように思われているのか?」という客観的な自己認識に関する知識がないと難しい、ような気がした。いや、単に、勝手な自己像が許されるような年齢では無い、という言い方もできるかもしれない。できることとできないことがあるってことがわかっていて、その上で自分の「好き」な目標を立てる、というのを、できるだけ客観的にやらないといけない、ということなのかもしれない。‥‥かな?
そう思うと、うん、やっぱり、少なくとも「勝手な思い込み努力目標」だけは、ふじいあきら師のような、あっさり味の、さっぱり味なのに、実はすごいことが起こっている、というようなのがやりたいなぁ。昔TVで見て衝撃を受けた(そしてそれがきっかけでオレがクロースアップ大好き人間になった)マーカ・テンドー師もそんな感じだったかもしれない。

またこの作品自体については、「観客は初めにトランプを混ぜたかどうかなど気にしていない(忘れている)」「何の操作もせずに当てたいのならFを使うほうが良いのでは?」と言われたが、それは(その場でも言ったが)大変悩んだところである。ただゼミ中には「大変悩んだ」ということしか覚えていなかったのでその場では言えなかったが、やはり、思い返すと、Fで同様の現象を起こすのは「怖い」のだ‥‥タブーを犯しているような気がする。それに加えて、これは演者側の勝手な思い込みも多分にあるのは承知しているが、完全なFというのが存在しないように、少なくともオレには思われるのだ。そして、その理由により、Fは何らかの作品の一部で使われてこそ意味があるような気がするのだ。

あと、リテンションパスについての話。いろんな方面に話が広がることを期待して選んだお題だったが、これまた期待に応えて頂いた。あえてひどい言い方をすれば「散漫」な話だったが、だからこそ情報量が多く、聞けてよかった。ここではうまくまとめられないが、ゆうき師の真後ろで真田師がものすごく真剣な表情で聞き入っていたのが、その情報量の価値に対するオレの勝手な思い込みでないことを示していたと思う。「構えちゃダメ」というのは、リテンションパスにとどまらず、上で指摘されたような「不必要な力み」とその裏にある気持ちの持ちようにもあてはまるのだろう。

ここに書いておこうと思ったことはこんなところかな?

ところでリテンションパスについての話の中で、「ブログにも書きかけたまま止まってんだよねー」「まとまらないんだよねー」とおっしゃっていたのだが、情報関係も研究対象になんとなく入れている研究者の立場で申し上げますと「ブログは(書いているうちに)自分の考えをまとめる場としても機能する」というのはIT業界の一つの「既成事実」であるので、フェイクパスの話の続きも、あるいは他の考え中の話も、まさにそのお話にあった通り「構えずに」続きを書き綴って頂けたらなぁ、と勝手に期待しております>ゆうき師(もし読んでおられたら)