レクチャーノートを書く人へ

最近、レクチャーノートを書くぜ!or書いたぜ!という若者をちょくちょく見かける。行って張っ倒してやりたいのはおいといて、そもそも『レクチャーノートを書く』とはどういう行為なのだろうか。
『作品集』と『レクチャーノート』は、その語義については、事実上ほぼ同一と見なしていいだろうと思う。本来は違うのかもしれないが。とりあえずここでは『ノート』と呼んでおく。

ノートを書くという行為は、我が心の師匠ふじいあきら師が以前どこかでおっしゃっていたことばを借りれば『そのノートの発行を以てその収録作品をオリジナル作品だと主張することが可能となる行為』ということができよう。従って、何でもかんでも収録してしまってよいのであれば、先行研究事例を一切気にせずとも自力で思いつきさえすれば『オリジナル作品』と言ってしまえることになってしまう。
もちろん、どこまで過去の作品を遡るのか、あるいはどこまでマイナーな過去の文献を漁るのか、などといった実際の先行事例研究の限界というか『そんなこと言ってちゃ何にも発表できねーじゃんかよー』ということを考えれば、(確かゆうきとも師がちょこっと言ってたと思うのだが)全くのオリジナル作品が生まれるなんてことはなくて多少なりとも先行事例とネタがかぶることは承知の上でのノート執筆、ということになるんだろう。
ただここで少し気になるというか素朴な疑問なのだが、『同じ作品でも演じ方によって全く異なった作品に見えることだってある』と言われる手品であるからして、その『演じ方』自体はある種の『作品』とは呼べないのだろうか?ということである。一般的な意味での『作品』とは異なるので、違う呼び名が必要かもしれない(例えば『オリジナル演じ方』としよう)が、その『オリジナル演じ方』にはディーラーズアイテムを含めてもいいんだろうか。オレは良いと思うんだが、やっぱりそこには何かラインがあることは間違いない。
別の側面。上記の話は、その作品がノートとして発表される『資格』があるのか?という点であったが、今度はその作品がノートとして発表される『価値』があるのか?ということについて考えてみる。何か一つでも発表して文献として残しておきたい、という気持ちは、科学者として小さくとも何か新しいことをして論文を書き小さくとも科学史に名を残せることに一定の悦びを感じている人間としては、非常に良く理解できる。ただ本当にそれをやってしまっては『オリンピック発表』でしかないのである。すなわち『発表することに意味がある』のであって内容は問わないということだ。手品におけるそういった価値というのは、いわゆる悪い意味でのブレインチャイルドと言うんかな?机上の空論ではなくて、実践と実戦によって淘汰され磨き上げられることによって高められるのだと思う。なぜなら手品は演じることによって具現化される芸能だからだ。そしてもしアイデアのみの作品集であっても出版する価値があるとするならばその場合にはそのアイデアを見た/聞いただけで読者を納得させるだけのパワーというか斬新さとか巧妙さとか(場合によっては狂気さというかバカさも?)、そういうのがないとダメであろう。
要するに倫理観の問題であると言ってしまっては実もフタもないのであるが、この『作品としての資格』と『作品の価値』については熟慮が必要であることは間違いない。幸いなことにオレの直接の知り合いの書いた/書いているノートは、そのあたりをきちんと踏まえた上でのことだというのが伝わってくる。しかし、『数年前のクロースアップマジックブームで調子に乗ってマジックを始め、2〜3冊ほど本読んでDVD2つ3つ見るぐらいでろくに文献にも当たらずにカードを一番上に上げられるようになっていろいろ試したら自力でルーティーン作れちゃって、ブームも去って一段落したらやることなくなって作品集書いた』みたいな若者っていうか馬鹿者が出てくるのを見ると、なんだか切ない。お前らに書けるようならオレなんかもうとっくに書いてるってのwww

と、どうみても『結局はオマエも書いてみたいんやんけ!』感のぬぐえないまま今日の愚痴を終わります。本当にありがとうございました。