私は不登校を絶対に肯定できない。

サボリのことではない(笑)

次の書評を見て。

不登校という生き方 教育の多様化と子どもの権利 (asahi.com)

著者、およびレビューアともに、昨今よく聞く風潮にのっかった話をしている。ひょっとするとこの著者が、そういった風潮を作りだした人々の一人なのかもしれない。

 不登校、ひきこもりなどが激増している。ほとんどの人が、過保護などのためだとし、‥‥(略)‥‥否定的に見ている。

 いまの社会や学校教育が、競争、管理、上下関係、押し付けに満ちており、子供たちの個性、興味、感性を押しつぶしている。それに対するのっぴきならない生命の反応が不登校になっていると解釈する。

それが過保護と言われているのだと思うがいかがか。『生命の反応』という解釈は確かに斬新で、そうかもしれない、とは思うが。

かつて槍(やり)で動物を仕留めていた時代に発達させた、アドレナリン系のホルモン分泌が弱く、闘争が苦手な子供たちが登場してきたのだ。

それはそうなのかもしれない。今後、必要ならば文化人類学的な考証もなされるかもしれないテーマで、興味深く思う。しかし、

いまの競争社会や画一的な教育システムが絶対なのではなく、いずれ進化していくだろう。

では、I.アシモフ氏の『はだかの太陽』に描かれる、『紛争を根絶するため』に『人口を極力抑え』て『隣人との接触が不要になるほどの敷地』と『完全自動化』による『個人レベルでの完全自給自足体制』を実現した社会が、進化の行く末だとでも言うのだろうか。

いや、私も『いまの競争社会や画一的な教育システムが絶対』だとは思っていない。特に資本主義的発想に基づく競争主義の『行き過ぎ』には憂慮している(断わっておくが私は別に共産主義者でも共産制支持者でもなく、まして唯一神率いる世界経済共同体支持者でもない)。私が言いたいのはそこではない。

「人間は『人』の『間』と書く」とか「『人』という字はひととひとが支えあっている姿」などと言った手垢に埋もれた話を持ち出すまでもなく、人間は一人で生きている/生きていけるわけではない。そしてそこに人間が2人存在するなら、既にそこは社会であり、ルールがある。例えば寮や職場での『相部屋』を考えれば、これが極論でないことはわかるだろう。そして、人間は2人しかいないわけではないのだ。

そういう意味での『社会』の中では、『個性、興味、感性』は『社会や学校教育』の『押し付け』などによって『押しつぶされる』より前に、時に応じて自ら進んで『押しつぶしておく』ことが必要となることがあるのだ。画一的であることが必要であったり、個性のためにはかえって一旦没個性することが早道だったりするのだ。社会人と言わずとも、10歳にもなれば、習得することがらである。その中で、『一旦押し潰しておいた』個性を『本当にぶっつぶれて』しまわないための方策を習得することが、本当に大切なことではないのか。個性を発揮できたときに

子供たちが全面的に受け入れられると「自らの内に秘められた宝物が生きて動く」様子は感動的だ。

なのは当たり前だ。おとなだってそうだ。いつどうやってそれを発揮し、いつどうやってそれを隠しておくのか、それが重要なのだ。

こどもがそういう社会への適応を余儀なくされるのは、先に述べた通り、人間だからこそ、当たり前なのだ。『人間』の定義そのものだからだ。そしてその社会への適応能力を『演習』する最初の場が『家庭』であり、次が『学校』なのだ。確かに各種の学校や社会自体が内包する問題は多々あろう。しかし『社会』からはぐれてしまうことを『進化』と呼んで肯定することは、人間の本質を否定することに等しいと思うのだがいかがだろうか。