心理歴史学

ランダムウォーク」というお題をご存知だろうか。

スタート地点に立って、さいころを振る。偶数が出たら右へ1歩、奇数が出たら左へ1歩進む。進んだら、またさいころを振って、右か左へ一歩進む。これを延々繰り返す。

‥‥というのを、大勢の人が一斉に行う。

十分に時間が経った後、人々がどこにどれぐらいいるか?

このお題は、確率・統計の知識を使えば完全に解けて、例えば結果をグラフに表せば、良く見かける釣り鐘状の正規分布のグラフになる。
俺がここで言いたいのは正規分布が云々ではなくて、

一人一人の行動は完全に「偶然」で支配されていて予測不可能であるにも関わらず、統計的に扱えるほどの人数になれば、「必然」になる。

ということだ。

SFの巨匠アイザック・アシモフが傑作『ファウンデーション』シリーズ、特に初期の3部作‥‥『ファウンデーション』、『ファウンデーション対帝国』、『第二ファウンデーション』‥‥で示した架空の学問「心理歴史学」は、Wikipediaによれば

膨大な数の人間集団の行動を予測する為の数学的手法。社会的、経済的な刺激への人間の感情や反応に一定の規則を見いだすことで、未来の人類の行動をも予測しうる。

というものである。アシモフは、遠い未来の「銀河帝国」の避けられない没落と、没落後の3万年続くと予測される暗黒時代を1000年に縮めようとする人々の作る組織「ファウンデーション」の有様を壮大なスケールで描いてみせた。鍵となるのがこの「心理歴史学」だ。
特に第1巻『ファウンデーション』で描かれる、「ファウンデーション」創立から百年程度のストーリーは、読んでいて、全く「歴史が他に進む可能性」を感じない。全てが統計的な必然であるように見えてくる。全ての人々は、全く自由に行動する。その自由選択の大量の集積から生じる「必然の流れ」は、「英雄伝」を全否定するかのようだ。作中にも英雄は確かに登場する。しかしその英雄は、統計的必然がもたらすのであって、その個人である必然性はない。もしそいつが生まれてこなかったとしても、別の誰かがその役割をすることになるだけで、その誰かの選択も、本人は自由選択のつもりであっても、その選択が集団/社会にもたらす結果には影響しない。「どうせそうなる」のだ。

また、第2巻『ファウンデーション対帝国』の前半部は、没落する帝国が「ファウンデーション」に牙を剥く有様が描かれるが、目次を見ると、その章立ての中に、「見えざる手」という節があるのがわかる。経済学の「大量の自由な人々が参加する自由な市場では、需要と供給のバランスによって価格が自動的に決定される」という古典的な原理を、アダム・スミスは「見えざる手に導かれるように」と表現したが、アシモフがこのことを意識して(させようとして)いるのは間違いない。
この歴史観は、おそらく、「非常に理系的」と見えるだろうと推測する。いわば「人々の織りなす激動と感動の人間ドラマ」の完全否定だからだ(笑)。上司のO教授は、「歴史を好きになれるかどうかは、『人』に興味があるかどうかなんだろうね」と言っていたが、「人」の要素を排除するこの考えは、正反対の方向と言える。
この3部作を初めて読んだのはたぶん中1か中2に頃だったんじゃないかと思う。それ以来、こういうモノの見方に毒されてしまっていて困る(^_^; いやー、思春期の読書って恐ろしい。
でも、たぶん、「心理歴史学」のようなものは、きっとあると思う。思っているのだ俺は(笑)。経済学や社会学でいう様々な法則は、集団の行動を扱っているのだろうと勝手に推測しているが、それらは、「心理歴史学のようなもの」の1つの現れ、表現の1つ、ではないかと思う。上で示した「ランダムウォーク問題」もその1つだ。
ある意味で宗教に似ているように思われるかもしれないが、それは違う。「人間の知識を超えたもの」を「信じる」のが宗教だ。自らの知識が「足りない」ことを、知識では「できない」ことだと論点をすり替えるのが宗教と言ってもいい。そういう思考することをあきらめる根性無しの精神ではなくて、あくまでも「原理」を追求する「知の活動」の大目標としての「心理歴史学のようなもの」を想定している。
「社会」はその「心理歴史学のようなもの」に従って動いているのだと思えてしまうと、例えば、もはや「一人一人の清き一票が政治を動かす」なんていう選挙の際のかけ声の価値はゼロになる。誰が当選しようと政治が「大局的に」変わる訳がない。今の腐敗した政治は、人間社会の「必然」である。そうでなければ、どこの国でも同じような腐敗っぷりが見られることをどう説明する?「私が政治を変えます」なんていう立候補者を見るにつけ、「こういう発言をする人には政治は任せられないな」と思えてくる。ではどんな人なら任せられるか?と言えば、「何もしない」人であろうか。「必然の流れ」を見極めることができる人物‥‥第1巻『ファウンデーション』の終盤で登場するホバー・マロウが俺が任せても良いと思える人物だ。要らんことをしないのが一番である。

だから、そういう必然的な集団行動の原理であるところの「心理歴史学のようなもの」の時間的集積である「歴史」を学んでいても、今学んでいるその「何とか史」が「歴史の全体」の中でどういう意味があるのか、何をもたらしたのか、というような、「大きな流れ」とか「大局観」とか言えばいいのかな、そういうのが見えないと、全然頭に入らない。誰かが何をして何事件があって、というようなことは、どうせそいつでなくても、その事件がなくても、きっと「歴史の必然性」の見えざる手によって、同じ結果をもたらすような別の人物・事件が現れただろうから、そんな細かい話はどうでもよくて、その「社会」がどう変化していったのかという「どでかいドラマ」をまず語って欲しい。それがあれば、その中で活躍した人々の「英雄伝」にも「どでかい意味」が付与されて、より光り輝くように感じる。
そんな歴史の教科書があったら、きっと、もっともっと歴史が好きになっただろうと思う。