視野の狭さに自覚的でありたい

久々に「マスメディア」で、溜飲を下げる記述があったので記録。「マスメディア」を批判する分章なんだけど。
危機をあおるのが新聞の役割か」の最後のところより引用。

 「負担はいやだ。受益はもっと」という国民の身勝手が政府の赤字を天文学的に膨らませた。大都会は「快適な生活はほしい。でも放射能はごめんだ」と原発を地方に押し付けた。「普天間の県外移転」は鳩山内閣だけが悩み、周りがそれをあれこれ批評する事柄ではなかろう。

 新聞はなぜもっと「あなた方みんなの問題ですよ」と、読者に鋭く迫らないのか。

視点の転換は、とても重要なことである。「空間把握」能力が重要視されるのは、そういうことなのだろうと思う。
新聞はもはや死んだメディアであるが、話題提供と資料提供の意味ではまだまだ存在意義があろう。「負担はいやだ。受益はもっと」という国民、という表現が紙上でできるようになれば、さらにその寿命は延びる可能性はあるのかなとも思わないでもない。

ちなみに、いろんなところでよく言うことなんだが、一度で良いから、それこそエイプリルフール限定でいいから、きちんとした根拠や論拠のある、現行の世の中(司法・立法・行政をはじめとする世の中のいろんなもの・こと)を「ほめる」だけで構成された新聞を見てみたいものだ。
悪口を言うだけならどんなアホにでもできる。もし自分に他人に講釈を垂れる資格があると思うなら、良いところを発見しそれを伸ばすヒントを出せることが、その資格の要件だと自覚するべきだと思う。
少なくとも、オレの知る限り、たいていの場合、悪口は視野の狭さに起因し、視点の転換によって良さが見えてくるものだと思う。ってオレの視野が狭いだけ、という話もおおいにあるんだけどもな!