神経質には2種類ある

おそらく全オレ及びオレを知る全員が全力で全驚愕することなのだが、ときどき、オレを評して「神経質な人」と位置付ける人がいるのである。

ぐあっ



あ、あまりのk、ことに、か、か、か、片腹が‥‥



「神経質」にはどうやら2種類あるようだ。

いや、当たり前のことを難しくいかにもそれらしく言うことが社会科学の得意技である、なんてことの是非を問う前にオレ自身が普段からそうであるから、気にしないでほしい。でも、やっぱり2種類あるように思えるのだ。

表面的には、「神経質」な言動というのは、たとえば、ちゃぶ台の上のTVのリモコンはきちんとそろって置いといて欲しいとか、とにかく床の上に置いてあるモノはどこかへ隠蔽するとか、靴ひもの結び方はこうでなくてはいけないだとか、横断歩道を渡るときは必ずクルマの運転手の視線を確認するとか、「細かい規定」に関することが多い。

しかし、その実現の動機が「内向的」なのか、「外向的」なのか、そこに厳然たる区別があるように思う。

昔ながらの、おそらくより広範な意味で「神経質」な人は、内向的に「神経」を使う「質(たち)」の人なのだろうと思う。さっき挙げた例で言えば、リモコンを並べ直したり、床に存在する物を移動しなくては気が済まなかったりする人だ。この人たちは、後でそのリモコンを使う人たちの使い勝手や、モノを床に置かなくてはならなかった事情の有無などは、そもそも脳裏に浮かばないのではあるまいか。即ち、あくまでも本人のための神経質であり、それが周りの人々に比して、環境を良くする効果があれば、その人は「マメで気がつく人」となるが、周りの人々にとって価値が低ければ「小うるさい人」扱いになってしまうのかもしれない。

にもかかわらず、オレみたいなのが「神経質」という単語で評されるというのは一体どうしたことだろう。意味が分からない。分からないのだが、「外交的な神経質」という概念を導入すればいいのかなぁ、と、ふと思ったのだ。ぶっちゃけて言えば、「外面を気にする」のかどうか、ということになるだろうか。「周りの人がどう思うか」に警戒をすることに「神経を使う質」と言っても良いだろう。
‥‥でも、ここまで書いて、やっぱりこれもオレには当てはまらないような気がする。うーん。
「周りを良くするため」という目標のためにする努力が傍目に見て「細かい」ように映れば、「神経質」と呼ばれてしまうのではないだろうか。ズボラなオレは、なんとかオレにも守れるような、敷居の低いルールを自らに課す‥‥以前から何度も書いている「仕組み」のことだ‥‥ことで、何とか仕事をし、環境維持(できれば向上)をしようと思っている。そういうなけなしのルール(これが守れなければいろんな意味で失格、というルール)を何とか死守しようという、「オマエ必死だな m9(^^)プギャー」な状態が必死すぎて神経質に見えるんだろう、と思ったんだがどうだろう。違うかな?