空気を読むということ

KYとは既に「空気読めない」ではないらしいが、いずれにせよ、少し前に「KY=空気読めない」というフレーズを生み出した世代はそろそろ高校から大学へと進学する世代、もしくはそれに近いのではあるまいか。

今、職場では大学の1〜2回生を中心に面倒をみているわけだが、彼/彼女らは、やはり空気を読むということを重視しているように、確かに見える。

だが、よく観察していると、彼/彼女らの「読んでいる空気の範囲」は、たいていの場合、自分を中心とする半径1〜2m程度である。この距離感は即ち、面と向かって話をしている数名程度の範囲内である。その小さな集団での会話についての空気は読んでいるかもしれないが、その集団自体が周囲からどのように見られているか、というところまでは読めていない。「大人」からすれば、これは「空気読めてない」のである。

これは「時間的な距離」にも当てはまる。面と向かって話している相手との会話に関して、考慮しなければならない事柄は、たいてい「今」から数秒〜数十秒程度の話である。自分がオチを言うために、相手にどうツッコミを入れさせたら良いか、その前振りのボケはどうするか、といった程度の時間感覚である。しかし、本当は、自分が話したことが1時間後、明日あるいは来週にどのように相手の中に留まるか、周囲に伝わるか、ということを「読めて」いなければ、「空気を読んでいる」ことにはならない。

従って、逆に、本当に「空気が読める人」ならば、そう簡単に腹を立てることはできないはずだ、と考えられる。自分の腹を立てさせている相手の事情、そしてその相手をとりまく環境が「読める」ので、なぜそういう「腹の立つこと」を相手がしているのか、が「読める」からだ。

森博嗣の言う「想像力」の問題、に近いのだろうと思う。

自分がいま何かをする/言うことによって次に何が起こるか考える。周りにどのような影響が及ぶか予想する。要するに、生物・無生物を問わず、有形・無形を問わず、「相手」が何を考えるか、どう感じるかを想像するということだ。

そのためにはどうすれば良いか?‥‥自分の「思い」つまりハートを、相手のハートへと派遣つまり「お遣い」に出して、どんなことを思っているのか、相手の立場を想像して、そこに自分を置い(たつもりになっ)て、考えるのだ。「思い」を「遣わす」というこの行為を「おもいやり(思い遣り)」と呼ぶ。