メディア社会―現代を読み解く視点(佐藤卓己)


佐藤卓己『メディア社会―現代を読み解く視点』 (岩波新書)

  • 作者: 佐藤卓己
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 定価: 777
  • Amazon 価格: 777 円(2008年05月20日 03時26分 時点)
  • 発売日: 2006/06
  • メディア: 新書
  • ISBN: 9784004310228



本書は、ろくな演技もできない能無しが役者面してるドラマに無駄な時間を費やしたり「お笑い」とかいう捏造された「ブーム」にかじり付いてたりする人には難しいかもしれない。しかしむしろ、「そういう人々とは自分たちは違う、知的に生きるんだ」ということで何も考えずに「新聞を読め」と言って自信満々の人や、逆にインターネット上に蔓延する「マスコミ=マスゴミ」論に毒された人(オレもかなりその部類だなと反省することが多い)、どの立場の人にも、自説を考え直すヒントが詰まっている。「そんなこと考えもしなかった」という人も含めて、誰にとっても一読の価値はあると思う。

もともと新聞のコラムとして連載されていた記事を再編集したものだ。書き下ろしではないが、それを感じさせない。やはり普段からきちっとした文章を書いている職業だけあって、梅田望夫シリーズのように切り貼りのバラバラ感は無く、読みやすい。データや引用文献も豊富で、研究や勉強のとっかかりとしては申し分ない。ただ、これも「ジャーナリズム」とかいう馬鹿げた空気が横溢している新聞というマスメディアに載っていたためか、各章の最後(つまり連載各回の結び)に「知ったかぶり的な捨てゼリフ」というか、「わかる人にはわかるよね」とでも言わんばかりの「ちくりと刺すようなイヤミなインテリ風刺文」があるのが鼻につく‥‥それさえなければ完璧であっただろう。
中でも感心したというか、忘れてはなるまいと思わされたのが、何度も登場する以下の事実だ。

‥‥ファシズム民主化は必ずしも対立しない。大正デモクラシーであれワイマール民主主義であれ、その普通選挙体制の中でファシズムが生まれた事実は、何度強調しても強調しすぎることはない。

マスメディアが錦の御旗のように繰り出し、(特に選挙の時などは)誰も疑問を抱かないまま礼賛する「民主主義」の「正義」とやらをもう一度見直すべきだろう。オレはそんな風潮には全く乗っていなかったつもりだったが、それでもこの視点はすっぽり抜け落ちていたし、考えさせられる。
こんな風に紹介してはいるが、この本全体はいわゆる「ジャーナリズム」を肯定しそれが「正しく機能する」ことを願っている。(オレのように)ジャーナリズム不要論者ではないことに注意されたい。

ところでオレは、インターネットと社会あるいは世界の関係とその行方について考えるために、「メディア社会」なるタイトルでこの本を手に取った。しかし読み進めるうちにわかったことだが、本書では「メディア」という単語は「マスメディア」を意味する用語として使われている。つまり新聞、TV、雑誌、ラジオといった旧来のマスメディアに関する書籍である。そう認識しておけば、先に述べたように、非常に示唆に富む良い本であり、確実にお勧めできる。ところが、

ニュー・メディアの新しさとは、まだその文法が確立していないからにほかならない。そして、新しい文法とはいつも既存の文法の応用であり変成である。とすれば、ニュー・メディアの文法を読み解く鍵は、メディア史の中にしかないのである。

と第一章の中盤で高らかに宣言するのだが、ことインターネットという目の前のメディアにまつわる諸現象や動向・潮流を読み解こう、インターネットに象徴される「現代を読み解」こうとする立場(オレ)には全く何のヒントも得られないのが残念なところである。皮肉なことだが、逆説的にインターネットの新しさを強調しているとも言えるかもしれない。ファインマン教授の「量子力学は新しい学問だ。既存の学問のアナロジー(類推)やたとえ話で理解しようとするのではなく、そのままをあるがままに受け止めなければ理解できない」ということばを引用して梅田望夫が主張するように、インターネットというやつは、メディア史からヒントを探して理解しようとしても無理があるのだろう。少なくとも本書からはそう思われた。だいたい昔のことを引っ張り出してきて目の前のことを解釈しようとするのは年寄りのすることだ(笑)。ケータイ文化の世代のように、ネットという怪物をあるがままで馴染んでしまうには、オレも少し歳をとりすぎているかもしれないが、なるべく「若ぶって」みようと思う。


蛇足注:この小文は2ヶ月ほど前に書いておいたもので、いつ出そうかとタイミングを見計らってネタ帳においといたものです。おとといの議論を踏まえて書いたわけではありません。念のため。