定跡本を見ても役に立たない理由

突然わかった。そうかそういうことか。
こういうことだ。

定跡とは、それぞれの戦形について、これが一番!と思われる手順である。ということは、この定跡手順に選ばれなかった手は、ダメな手であるということだ。

しかし、定跡本に載ってる手順が指されることは、普通、無い。普通に暮らしていたら、定跡に通じた相手と将棋を指すことはほとんど無いからだ。つまり、一般的に目にするのは、定跡から外れたダメ手のほうが多いのである。

だが、相手のそのダメな手もそれなりに根拠というか狙いがあってのこと。だから、そのダメ手を本当にダメ出しする(とがめる)ためには、その定跡が形成されていく過程において「その手はこうしたら撃退できる」という手順が指せないとこちらが「相手のダメ手の術中にはまる」ことになってしまうのだ。
だがそんな没手順、数えだしたらきりが無いことは自明であろう。「あーでもない、こーでもない」の「あー」とか「こー」とかのことなのである。そんなのを全部覚えるのは一般的平均的な凡人には原理的に不可能と言ってよいだろう。かといってその場その場で考えて切り抜けるにも、やっぱり限度があるというものだ。そうでなければ定跡は存在しないはずだし、何でも来いの当意即妙の瞬発力があるならそれはセンスがある人というか、本当の将棋人だとも言えるだろう。縁台将棋というか、単なる将棋好きにそれを求めるのは酷というものではないだろうか。

できるようにならないといけないのは、定跡を指せることではなく、定跡になれなかった幾多の没手順を指せることなのだ。

そんなの将棋凡人のオレには無理。

だから無理して強くなろうなんて言わずに、「待った」しまくってもいいから楽しく指そう。

っていうか三間飛車イイ。